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シシリーのタオルミーナ (Taormina) でグランブルー(Le Grand Bleu)を楽しむ~1999年8月 [タイムスリップ]

1999年8月映画グランブルー(Le Grand Bleu)の舞台シシリーのタオルミーナ (Taormina) に行きました。

《ホテルVilladucale》に宿泊。
インターネットで見たら、ちょっと異様でしたが、とても綺麗との同居人の言葉に押されメールで予約しました。このホテルの予約前にHotel TIMEOに予約を試みましたがun readableのお返事。後で、わかったのですが日本語フォントのローマ字で英文入力していました。Centuryなどじゃないと読めません。当たり前か(そんな時代でした)。

8月22日夜シチリア島のカターニャ空港(Catania Aeroporto)に到着。ホテルVilladucaleにインターネットでお願いしていたタクシー(約6000円)でホテルに到着。

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《Villaducale庭》

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《ホテルの部屋から》

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《映画グラン・ブルー(Le Grand Bleu)》

1988年に公開されたフランスとイタリアの合作映画であります。監督はあのリュック・ベッソン。イタリアで映画が公開されなかったともいわれ地元の人は何故観光客が押し寄せてくるのかわからないと当時言われていました。
■イタリア人フリーダイバー、エンゾと酸素ボンベもなしに潜水するフランス人のジャック・マイヨール。2人の男の競い合う、そして友情に満ちた話。舞台になったのがタオル ミーナ (Taormina) の「イゾラ・ベッラ(Isola bella:美しき島の意)」であります。

《イゾラ・ベッラ(Isola bella)》

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《カーポタオルミーナホテル》
映画「グランブルー」の中で、エンゾがパスタを美味しそうに食べてたレストラン

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《マッツァーロ海岸の船頭》
:勝手に貸し切りにして、ぼってましたが、見どころ、泳ぎどころに直行してくれる愉快なお兄ちゃんでした。

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《マッツァーロ海岸で泳ぐ~船頭さんのご案内で行きました。先客がいましたが。》
マッツァーロ海岸に浮かぶのが映画”グランブルー”の舞台イソラ・ベッラ(美しき島)です。

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《サン・ドメニコ・パレス・ホテル(San Domenico Palace Hote)lの中庭》
映画『グラン・ブルー』の撮影で使われた中庭。

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《パレルモ等へはツアーバスがお薦め~当時は、パレルモへのツアーバスがありました》
タオルミーナからパレルモへのバスは、ホテルに薦められたツアーバスで行くこととしました。バスは、タオルミーナのバスターミナルから明方の暗いうちに出発しました。フランス語と英語の添乗員つき観光バスで行きましたので、歴史の説明などが早口でちょっとついていけないこと以外は、楽チンな旅では有りました、。(最初は、間違えてドイツ人グループのツアーバスに並んだけど、明らかにドイツ人には見えない我々夫婦に、親切なドイツ人のおばさんが、並ぶの向こうじゃないですかと余り人のいない方を指さして教えてくれた。こんなに早くから集合しているところみると、やはり、ドイツ人は勤勉な国民だなと納得)

※今は(も?)直行バス(定期バス)が無いとのことです。....<タオルミナ→カターニャ(バスか電車) カターニャ→パレルモ(バス)> 何語かわかりませんが、ツアーバスは有ると思いますので、ホテルで聞くのが一番です。


《ノルマン王宮-Cappella Palatina~ガイド:アントニオさん~説明は、英語とフランス語》
ノルマン王宮3Cappella Palatinaアントニオ.JPG


《教会》

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1989年4月 飛鳥に行った [タイムスリップ]

1989年4月 飛鳥に行った

当時は、飛鳥がまだ整備がされ始めたころで移動は、近鉄か、自転車か歩きでした。泊まるところは民宿があったか、なかったかですが、余り印象に残っていません。確か奈良に泊まったと思います。

《益田の岩船》
奈良県橿原市の橿原ニュータウン内、白橿南小学校の西の丘陵(岩船山)の頂上付近にあります。
益田の岩船と三輪山の頂上を地図の上で直線に結ぶと、その線上に大和三山の一つ、香久山が来ます。
古代へのロマン湧きあがります。
さて、山を登るのを嫌がる同伴人を中腹で置いて独りで登ったと記憶していましたが、同伴人を岩の前での撮影したスナップを発見。結構根性が有ったようです。
<アクセス>電車 :近鉄吉野線岡寺駅下車、西へ約1km、徒歩で約20分

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<上から>

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《猿石》
奈良県高市郡明日香村の梅山古墳(現:欽明天皇陵指定)西に隣接する吉備姫皇女王墓内にあるシュールな奇石です。全部で4体ある。ユニークな人面石像ですが、猿ではなく渡来人を象ったものであるといわれているらしい。テレビで誰かが宇宙人だとも言っていた。
<アクセス>自転車で行きました。

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<亀石>

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《酒船石》
酒船石は、奈良県明日香村岡にある。松本清張の小説『火の路』にも出てきます。
ゾロアスター教(拝火教)の薬酒(ハオマ)を作っ たとか、いろいろなことを 言う人がいるけど謎です。
<アクセス>自転車で行きました。

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1998年7月ポルトフィーノ(Portofino)に行った [タイムスリップ]

1998年7月15日喧噪のニースから、北イタリアの片田舎(当時)リヴィエラ (Riviera) のポルトフィーノ(Portofino)に移動しました。当時はポルトフィーノと言っても、「何処ですか?」と言う感じでありました。
国際列車でニースから、ポルトフィーノの玄関口サンタ・マルゲリータ・リグレ(Stazione di Santa Margherita Ligure-Portofino)に向かいました。駅弁(フランスパンのサンドイッチ 日本円180円ぐらい)を買って車中食したので数時間はかかったように思います。(因みに Santa Margherita Ligureは、ジェノバからは列車で約20分です。)

なお、ポルトフィーノ(Portofino)は、サンタ・マルゲリータ・リグレ(Stazione di Santa Margherita Ligure-Portofino)の対岸にあり、かつては入り江の奥にあるひっそりとした漁村だったそうですが、第2次大戦後に、ヨット遊びのリゾート地として急速に発展しました。高級別荘地としても有名とのことでしたが、維持するのが大変で、結構別荘が空きが有るとの地元情報を何方かにいただきました。別荘は買えないですがね......

宿泊先は Santa Margherita Ligureにあるグランド ホテル ミラマーレ (Grand Hotel Miramare)でした。2階の海が真正面に見えるベランダ付きの一番良い部屋でした。四つ星★ですが、当時はここら辺では一番の老舗高級ホテルで、客もどことなくお品が良く、ホテルマンとのやりとりみても常連が多かったように思いました。プールなどでパラソルをセットしてもらっていた老夫婦の、チップの渡し方もさりげなかったですね。初日はホテルで夕食をとったのですが、品の良い老夫婦や未亡人と思しきご婦人が、ちょっと日本では見かけない涼やかかつ高級そうな服を身にまとい食事をしていました。そんな光景を横目で見て興奮する奥さんを嗜めつつ、品位に欠ける唯一の日本人客夫婦は高級料理を緊張しながらもうまいうまいと食していました。
なお、翌晩からは地元客で賑わう、港の魚市場隣接のシーフードレストラン(ホテルの1/3ぐらいの料金でした)で、美しい海と夕日を眺めながら、名前がわからないけど店で一番高くておいしいワインと、同じく名前がわからないですが、地元客が頼んで運ばれてくるおいしそうな料理と同じものを持ってこさせて舌づつみを打ちました。.. ボーノ(Buono)!
※カジキマグロのオリーブオイルの酢漬け、スライストマトにカツオの塩辛?が添えてある料理、ムール貝てんこ盛りスープ、小蛸などのフリッタ、.....etc.

《ミラマーレホテルから明方の海の眺め》

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★ポルトフィーノ(Portofino) にはサンタ・マルゲリータ・リグレから船で15分。

《船上で》

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《ポルトフィーノ(Portofino)港》

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★入り江を挟んで街の向かい側の丘にはサン・ジョルジェ城があります。古い要塞を改築した19世紀の城で、美しいポルトフィーノの入り江と街並みを一望することができるということで、登ってみました。

《サン・ジョルジェ城からポルトフィーノ(Portofino)港を眺める》

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【関連記事】
◆イタリアのPortofino(ポルトフィーノ)を再び描く
https://sodaxpiee.blog.so-net.ne.jp/2018-05-27-1

◆ポルトフィーノ港(Porto di Portofino)を描く~リビエラ(Riviera)の旅 
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2020-07-21

1997年カプリ島マリーナグランデ港からアマルフィー(Amalfi)に船で行った~Ⅱ [タイムスリップ]

1997年9月カプリ(Isola di Capri) マリーナグランデ港からポジターノ(Positano)経由でアマルフィー(Amalfi)に船で行った。まだ、アマルフィーは、余り有名でなかったような記憶が有る。カプリに何日もいるので、対岸に船で行くのも良いかとばかりに、アマルフィ行き高速船の時刻表をホテルで聞いていざ、出発。


《途中経由したポジターノ(Positano)》
美しい街並みが見えた。Positanoは何年か後の2002年にソレントから陸路で行ったが、この時は下船せず。:カメラの日付、1年誤って設定。

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《アマルフィー(Amalfi)-教会》

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《アマルフィー(Amalfi)-海岸》

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《コッツエとピザ》

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《ダイアナさんの事故死に遭遇》

1997年8月31日未明英国の元妃ダイアナがパリで事故死しました。カプリに到着したばかりの日は、ホテルのテレビをつけるとCNNは、ダイアナ元妃の死亡したニュースを繰り返していました。
頻繁に「パパラッチに殺された(ようなもの)」という発言が聞こえていたようですが、風呂に入っていた私は、「ダイアナさん、誰かに殺されたのかな?」なんて漠然と聞いていました。ダイアナさんが、チャールズ皇太子と日本に来た時は青山一丁目で沿道からお姿を拝見していたので、ちょっと気になったのですが、その日は街中を散策に出かけてしまいました。
 夕方、プールにいると奥さんが、新聞を持ってきました。一面には、すごい形相のイタリアの高名なオペラ歌手「パヴァロッティ」が大きく載っていました。
「パパラッ・・・・?に殺された?」「パヴァロッティに殺された?こいつか、犯人は?」と言ったらイタリア語のわかる奥さんに「ダイアナ妃の親友って書いてあるわよ」と笑われました。

【Capri - Amalfiカプリマリーナグランデ港からポジターノやアマルフィーは船で近かったが、シーズンによってないらしい】
<Capri.NET>時刻表参照→季節によっては、ソレント経由で行くほかないようです。

http://www.capri.net/en/ferry-schedule?path_id=2

☆This route is only active from May to the end of October.

◆1997年9月カプリ島(Isola di Capri)に行った。~Ⅰ [タイムスリップ]

 http://sodaxpiee.blog.so-net.ne.jp/2012-08-18

1997年9月カプリ島(Isola di Capri)に行った。~Ⅰ [タイムスリップ]

1997年9月パスタのコマーシャルで話題となったイタリアカプリ島の「青の洞窟(Grotta Azzurra)」に、ワールドワイドなオノボリさんである我々夫婦は、当然行くべしとなって、「一度は、見てから死ななければならない」ナポリに飛行機で飛びました。数日ナポリを楽しみ、カプリ島へ….


カプリ島(Isola di Capri)は、ナポリ港から、高速船で約40分で着きました。荷物を運んでくれるという上半身裸の男たち(有料のポーターだったらしい)の申し出をちょっとこわい?ので断り自分で荷物を持って上陸。
はて、荷物はどうするんだっけ?島内へガソリン車の乗り入れが禁止されているとガイドブックに書いてあったのですが、ホテルを取ってくれた旅行社からは全く説明はなかったなあ?(当時は、まだインターネットでホテル予約取っていなかった時代であります)
と言うことで宿泊予定のホテルプンタトラガーラ(Hotel PuntaTragara)に電話で聞いたら2500円ぐらいで、電動台車で迎えに来てくれるとのことでありました。歩いてもそんなに時間掛らないというから、綺麗な風景を眺めながらもおつなものと歩きました。石畳の凹凸が大変で遠くはなかったですが、スーツケースをガラゴロガラゴロ、道行く人からも注目を集め、間違いなくセレブじゃない日本人二人はホテルに向かったのであります。(後悔)

《時刻表-Capri Net ナポリからカプリへ》

http://www.capri.net/en/ferry-schedule


《ホテルプンタトラガーラ(Hotel PuntaTragara)》~Via Tragara, 57, 80073 Capri, Island of Capri, Italy
PuntaTragaraは、トラガーラ岬の意味。部屋の窓からも岩場が見えるこじんまりと、素朴で落ち着いたホテルでした。フロントにオヤジ一人しかいないので、日本円の両替頼んだら当日の新聞でレートを見ていたのには驚かされました。今は五星ホテルだそうですからそんなことないかも知れませんが、ドルと元しか替えられないかもね....

<ホテルのパンフから>
Hotel Punta Tragara_0002.jpg



<部屋から~日付の、87年は、97年の間違い>

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《プールで泳ぐのは日本人だけ?》

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【カプリ島観光】

《クラシックタクシー》

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《ヴィラ・サン・ミケーレ(Villa S.Michele)》
医者であり作家でもあるアクセル・ムンテがローマ時代の廃墟跡に建てたヴィラ・サン・ミケーレから、海を一望できます。お薦め!
※リフトに乗って、ヴィットーリオ広場のソラーロ山のリフト乗り場から歩いてすぐ

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《青の洞窟~天候が悪いと見られないと聞いていたが、運よく快晴でした》

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《青の洞窟観光後食事を楽しんだ洞窟上のレストランから》

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【Capri - Amalfiカプリマリーナグランデ港からポジターノやアマルフィーは船で近い】
カプリからアマルフィ行き高速船の時刻表をホテルで聞きました。ポジターノを経由してアマルフィーに着きました。→Capri.NET<便利サイト>~無くなっちゃったと思っていたら、復活していた。

以下のサイト<Capri.NET>時刻表参照

http://www.capri.net/en/ferry-schedule?path_id=2


<次回は>

1997年カプリ島マリーナグランデ港からアマルフィー(Amalfi)に船で行った~Ⅱ

http://sodaxpiee.blog.so-net.ne.jp/2012-08-19

★なお、カメラの日付が、87年(1987年)となっていますが、1997年の間違いです。

ユーラシア大陸最西端の「ロカ岬」に行った。~「ここに地終わり海始まる」~ [タイムスリップ]

2000年8月28日ポルトガルリスボンからシントラに立ち寄りユーラシア大陸最西端ロカ岬(Cabo da Roca)に行った。

ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩「ウズ・ルジアダス」第3詩20節の一節「ここに地終わり海始まる(Onde a terra acaba e o mar começa)」であまりにも有名なロカ岬だ。ユーラシア大陸最西端の岬である。北緯38度47分、西経9度30分にあるとのこと。

宮本輝の小説「ここに地終わり海始まる」どんな筋だか思い出せないけど、ロカ岬に行った時は、まだ読んでいなかったような気がする。「ここに地終わり海始まる(Onde a terra acaba e o mar começa)」という、火薬も印刷技術も自分たちの発明にしてしまうヨーロッパ人特有の自分中心に地球が回っているような世界観が、とても印象的だった。


《ロカ岬》

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《石碑~観光客の黒人男性に是非とも撮っていけと強く勧められ、記念撮影》

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《ユーラシア大陸最西端到達証明書》
有料だがユーラシア大陸最西端到達証明書を同岬案内所で発行してくれる。当時日本円で650円ぐらいだった?のを覚えている。(今は5ユーロと10ユーロのタイプの証明書があるとのこと。)

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《シントラ~ペナ宮》

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《行き方》
リスボン・ロシオ駅( Estação Ferroviária do Rossio)からシントラへ行き(30分おきぐらいに出ていた)、世界遺産の町シントラのペナ宮などを見学の後、バスでロカ岬まで向かう。いずれもお定まりの観光コースのため、適当に聞きながらでも困ることはない。


【関連サイト】
◆リスボン (Lisbon)とテージョ川~2000年8月
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-10-05

◆オビドス(Obidos)に行った。~2000年8月(ポルトガルの旅)
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-10-09-1

電車を間違えてスイス国境の町ドモドッソラDomodossolaに行った [タイムスリップ]

《マッジョーレ湖(Lago Maggiore) ベッラ島からマードレ島へ》

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イゾーラベッラ庭園の前で3和弥GG.JPG


イゾーラベッラ庭園から湖風景13遊覧船疾走_edited.JPG



<マードレ島>

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【帰路】

2000年8月31日朝からミラノからスイス国境付近のマッジョーレ湖(Lago Maggiore)に行って、午後3時頃、そろそろミラノに帰ろうと電車に乗りました。
時間が経つと何だかだんだん森の中にというか、夏なのに雪山の峰々が真冬の電車のように曇った車窓から見えました。「変だね?霧も出てきたし。雪でも降るのかな?」連れに尋ねても分かろうはずはありません。外はすごく涼しそうです。窓も曇り汗をかいています。動揺しきりであります。乗客に聞こうにも、向かっている駅名を言われてもわからんし、だいたい外人ばかりであります。(あ! こっちが外人か…)

電車はしばらく走って、大きな駅に着きました。この時すでにミラノと逆方向に間違えたことは御婦人の乗客に聞いて承知していましたが、大きな駅ならミラノに帰る電車も何本かあるだろうと、兎に角降りました。

天井の高い大きな駅でした。その天井の壁に山登りのルートなどが大きく描かれていました。アルピニストがここから山(アルプス?)に登る起点となる駅のようです。ミラノに帰れる電車は、しばらく来ません。
 記憶が定かではないですが、そこはスイス国境の町ドモドッソラDomodossolaだったと思います。せっかくだから、散策しようかということになり、約1時間、人生で二度と来ないだろうと思う町をトンチンカン夫婦は見学して歩きました。

《ドモドッソラDomodossolaの町》


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【マッジョーレ湖(Lago Maggiore)とドモドッソラDomodossolaへの行き方】

マッジョーレ湖(Lago Maggiore)へは、ミラノ中央駅からドモドッソラDomodossola行き電車に乗り、ストレーザ(Stresa; 湖畔の町) で降ります。電車の所要 時間は、50分です。

★ドモドッソラDomodossolaへは、そのまま行ってください。動揺していたので所要時間は記憶にありません。とても時間がかかったように思いましたが、後で知ったのですがマッジョーレ湖(Lago Maggiore)自体が、北部はスイスのティチーノ州にまたがっていたそうなので、15分~20分ぐらいだったかも知れません。

【関連記事】

◆走る船の風景 Lago Maggiore ~マッジョーレ湖(Lago Maggiore)を描く
https://sodaxpiee.blog.so-net.ne.jp/2018-11-15

インドネシアのボロブドゥール遺跡(Borobudur)を見に行った [タイムスリップ]

1989年8月24日、インドネシアボロブドゥール遺跡(Borobudur)に行った。ジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な大乗仏教の遺跡である。バリ島に滞在していたので、ジョグジャカルタまで、プロペラ機で飛んで、車で約1時間で到着。機内は、日本製のビデオ撮影機やカメラを持ったフランス人らしき旅客がやたら多かったのを覚えている。

入口をはいると正面の道沿いに「1000円」「1000円」と日本語で呼びかける物売りの声が絶えない。私たちは、日本から飛行機を予約していたのだが、ツアーで一緒になった人達は現地で飛行機のチケットを取ろうとしたが誰も行けなかったと聞いた。行く前は、どうせ旅行会社のぼったくりだろうと思ったが、万が一ということを考えて国内で事前予約していったことが幸いした。


《入口》

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《遺跡正面》

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マドリードのラス・ベンタス闘牛場 に闘牛を見に行った [タイムスリップ]

1993年8月30日マドリードにあるラス・ベンタス闘牛場 (Plaza de Toros de Las Ventas)に闘牛を見に行った。スペインでは最大級の闘牛場だ。
当時日本円にして5000円/2人くらい?の日陰席(5000ペセタだったので、かなり高い席だったらしい。ソンブラ:特等席)に座った。真正面の1300円/人位の日向席(ソル:大衆席)と比べ何ゆえ高いのかと言うと、席がゆったりしているほかに、日陰で日が当らず暑くないからであった。スペインの夏は、午後9時過ぎまで明るいし、日差しも結構強い。
 私たちは、座布団を借りて着席したが、日向席がエリアによって満席なのに日陰席にはお客はちらほらいるだけであった。
やがて、日陰席にいるアメリカ人観光客の老夫婦が隣に来て話しかけてきた。わたくし達夫婦が日本人であることを確かめ、ご主人が、沖縄から出撃した朝鮮戦争のことを話し始めた。止まらない。もちろん日本にも何年か駐留していたらしくとても懐かしそうだったのを覚えている。血沸き肉躍ったのかも知れない。そのアメリカ人の老人とお話をしているうちにいよいよ闘牛が始まった。


闘牛のルールと言うか、しきたりや、各プレイヤーの役割は明確にはわからなかったが、ラッパのファンファーレとともに隊列を組んでの場内一周が始まった。

《隊列を組んでご挨拶》

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主な闘牛スタッフの役割は以下の通り。
①助手、バンデリジェーロ (Banderillero):何人かで色紙に飾られたBanderilla(短銛)を闘牛の背中に刺す

②槍士 (Picador) :2人ぐらいいた。(正確には、2人と2頭の馬)役割は馬上から牛の肩の瘤に槍を突き刺し牛を弱らせ、頭を下げさせる。馬の両脇は、無圧ふとんのような文様の防護マットで覆われており中世の昔を思い起こさせる異様な感じ。
牛が突きかかってきても、おされながらも、ただただ槍を突き刺す。

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③正闘牛士 (Matador) :赤いフランネル製の布ムレータを持って登場する。「よ!千両役者」というところである。演技中にバンドの生演奏が入る。主役であり、牛に止めを刺す闘牛士だ。
その他のスタッフもいるが、省略。

これらが、儀式に則り闘牛をよってたかって、翻弄させながら追い詰めていく。ヨレヨレの牛を見事一撃でとどめを刺した闘牛士は、会長(相撲協会理事長みたいな)から牛の耳を切り取ることを認められ、それを掲げ、興奮する観衆の歓声にこたえるため場内を一周する。しかし、一流の闘牛士が出てくるのは相撲と同じで最後のほうである。(斃された牛は、高い値段で売れるそうで、いつか漫画で見たような姿で場内から引きずられて退場していく。)

《Matadorと闘牛》

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以上の儀式を延々と繰り返すのである。最初は、残酷な血なまぐささと言うか、肉食人種の独特の体臭を無理やり嗅がされた様な気分になり、ちょっとすっきりしないまま重い時間が過ぎた。儀式の中の儀式というか、延々続けられる儀式の繰り返しが徐々に厳かさに変わっていくのを感じた。様式美の美しさを感ぜずにはいられなかった。時折、一撃でとどめをさす正闘牛士 (Matador)がいて、否が応でも場内は興奮に包まれる。
見始めて2時間弱、これからというところで、残酷さに圧倒されたのか同伴者が悪感がしてダウンしたため、ラス・ベンタス闘牛場を出てデパートにセーターを買いに行った。セーターを買ったのは、あとからわかったのだが、まだ世界では無名だったZARAだったとずいぶん経ってから同伴者に聞いた。
★なお、闘牛のシーズンは、毎年3月から10月まで。


《チケット》~確かホテルのフロントで手配してくれました。多少高いかも知れませんが、余りせこいこと考えない方が良いです。行き方から入り方まで説明してくれて、安全が買えるのですから。

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《交通》
マドリード地下鉄の2号線または5号線を利用する。最寄はVentas(ベンタス)駅。駅から地上に出たらレンガ造りの建物ですぐわかります。いろいろ人が話しかけてくるけどわからないふりして無視しましょう。


【関連記事】

◆アルハンブラで終日遊ぶ~1993年9月飛行機でスペイングラナダ゙に行った
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-04-05

◆スペインの大平原を電車に乗ってセゴビア(Segovia)に行った。-1993年8月
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-04-02

◆マドリードの日々~1993年8月
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-09-07

ウイーンのシェーンブルン宮殿に行った帰りにソプラノ歌手鮫島有美子の義父に会った [タイムスリップ]

1996年8月ウイーンのシェーンブルン宮殿に行った帰り、日本の声楽家でソプラノ歌手鮫島有美子の義父に会った。鮫島 有美子の夫は、ドイツ人ピアニストのヘルムート・ドイチュと言う人で、ウイーン在住だったらしい(当時)。
シェーンブルン宮殿は、ウィーンの中心部※シュテファン大聖堂から西に直線で約5kmの位置にある。行きは地下鉄で行った。しかし、帰りは入ったところと別の出口でもあったので路面電車に乗ろうと停留所あたりをうろうろしていたところを見知らぬ老人に声をかけられた。市内に帰るなら途中まで一緒に行こうということだった。どうも市内に直行できる電車でなかったらしく途中で乗り換えが必要であるとか説明していたような気がする。話しかける言葉は英語だったと思うのだが、何分、昔のことで忘れた。

改めて車内で我々が日本人であることを確認して、鮫島有美子を知っているか?と聞いてきた。日本では有名である旨伝えると嬉しそうな顔をして、自分の息子の嫁であると誇らしげにほほ笑んだ。鮫島有美子はもちろん、夫が外国人であることも何となく知っていたので、その老人をがっかりさせないで兎に角良かったと思った。

老人は、楽しそうに別れを告げ途中駅で路面電車を降りて行った。乗り換え駅名を繰り返しながら、そして、最後に..Gute Reise(良い旅行を..).     



《シェーンブルン宮殿~ただただ、広かったのを覚えている。庭園は東西約1.2km、南北約1kmの規模で、1779年頃から公開されているそうである。》

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《シェーンブルン宮殿のクロリエッテ》


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《シェーンブルン宮殿への行き方》
・市内からは地下鉄U4号線に乗りシェーンブルン駅下車。
・路面電車なら西駅/Westbahnhofから58番でシェーンブルン宮殿/Sloss Schoenbrunn停留所
☆確認してくださいね。昔の話なので。


※《シュテファン大聖堂の上から》

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