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希望~父母の新婚時代 [よしなしごと]

戦後まもなく結婚した父母は、浅草花川戸父の戦友の営む下駄屋さんの2階から始まったように聞いている。件の写真は、そのころのものか?
その後、小岩から間もなく目黒の都営住宅が当たり、のちにアパートになったが、父母は人生の大半を目黒から離れず一生を終えた。
人生に波乱があったかどうかはわからないが、お互いに慈しみ合い、4人の子供に恵まれ、楽しく人生を過ごした仲の良い夫婦だった気がする。

父が亡くなった後も、母は目黒の都営アパートに一人で頑張り、父と50年以上暮らした目黒を離れたがらなかったが、2007年ころからパーキンソン病症候群に病み、介護施設に入らざるを得なかった。母のあの時の無念な様子は今も思い出すが、最後はすべてを理解し承知した。聡明な人だった。

写真は、戦後まもなくの希望に満ちた新婚の父母である。自分の好きな写真である。
グワッシュで絵に描いてみた。

《希望~新婚の父母》

新婚時代-5-2.JPG


《希望~絵にしてみた》

写真のネガフィルムを連想して描いてみた。

DSC03418希望G (1).JPG



父 2002年9月没、享年87、 母 2010年1月没 享年88


【レクイエムrequiem】
◆門出
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◆奇妙な夢を見た
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◆父の買ってくれたブリキのロボット 
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◆父の中国留学~戦後70年
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◆父母の旅路(平成2年5月のフォトファイル)
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◆幼年の世界~クレヨン画みつけた
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◆油絵の記憶~素人の世界-断捨離中-その2 
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◆65の手習い~絵画再開しました。
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◆馬子にも衣装 
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◆ワンコを描く
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◆所詮、絵空ごとですが…心は自由自在
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◆ニースサレヤ広場を描く~グワッシュ
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◆イタリアのPortofino(ポルトフィーノ)を再び描く
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◆海の彼方から音楽の聞こえるラヴェッロ(Ravello)ルフォロ荘(Villa Rufolo)を描いてみた 
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◆希望~父母の新婚時代
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◆義父の愛娘を描く
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◆長岡の花火を描いてみた:The Nagaoka Festival Fireworks .
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◆走る船の風景 Lago Maggiore ~マッジョーレ湖(Lago Maggiore)を描く
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◆1999年のTaormina Hotel Villa Ducaleからの風景を描いてみた。
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◆南仏コートダジュールのエズ(Eze)を再び描く [素人絵画の世界
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◆サボテン曼荼羅を描く
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◆台場沖で屋形船を眺める
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◆警戒する猫
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◆鬼怒川ライン下りをドローンで?描く~橋の上から.. [素人絵画の世界]
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◆浦和別所沼のwestie Pieechan 
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◆浦和 玉蔵院の枝垂れ桜を描く
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◆ペナンの無人島で 
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◆利尻島(鴛泊港)を描く
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◆ポルトフィーノ港(Porto di Portofino)を描く~リビエラ(Riviera)の旅 
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◆ネグレスコホテル(LE NEGRESCO HOTEL)を描いてみた~南仏ニース<1998年の夏>
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◆『酒とバラの日々』(Days of Wine and Roses)
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◆薔薇のお祝い
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◆友を描く...
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◆「鬼怒川 ライン下り乗船場」を”俯瞰的に”描いてみた 
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◆「桜の森の満開の下」 描けば描くほど
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◆ギリシャの旅人
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◆キョトン顔のWestie Pieechan を久ぶりに描く 
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◆プエルトバヌス(Puerto Banus)の夕暮れ
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◆ポジターノ(Positano)停泊 
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◆「オーゼの死」の旋律で 
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◆見つめるピーちゃん(Pieechan)
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◆富士山八合目でご来光!
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◆台湾ザ・ラルー涵碧樓(日月潭)ホテルのプールで泳ぐ~描いてみた
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◆京都八坂の塔を描く
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◆ナポリ、サンテルモ城(Castel San Elmo)から
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◆新宿ジャムセッション~パークハイアット東京ニューヨークグリルから
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◆新宿JAZZ ~再び新宿を描く 
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◆東海のはな
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◆庭園のばら
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◆初日の出を待つ
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◆かわいいひと
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◆エトワール凱旋門(Arc de triomphe de l’Étoile)の下で
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◆凱旋門の屋上から
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◆エトワール凱旋門(Arc de triomphe de l’Étoile)の下で
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◆凱旋門の屋上から
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◆箱根美術館を描いた
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◆頼もしいひと
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◆Shinjuku Saturday Night
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◆庭園
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◆サボテンの花の命は短くて-中華屋のサボテンⅣ
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2023-06-14
◆バトー・パリジャン(セーヌの船着き場)
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2023-07-19
◆バトー・パリジャン(セーヌの船着き場)
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◆老人と別所沼公園
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◆雪の日
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◆記念日の薔薇
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◆うーん あつい! 酷暑停滞 
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◆Sorrento(ソレント) 
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◇コロナ禍のはざまで「In My Life  曽田大二 絵画展」10月31日(日)無事終了
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2021-11-01-1 





小布施お参りの旅と牛に引かれて善光寺参り [よしなしごと]

11月25日先月急逝した友人の夫のお参りに小布施のお家にお邪魔し、その後夕暮れの善光寺に立ち寄って来た。牛に引かれて善光寺参りの信州善光寺だ。

《小布施駅から》
御同行の皆さん。

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《善光寺》
立派なお寺

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★牛に引かれて善光寺参り
昔、信濃の国の心が貧しい不信心の老婆が、ある日、軒下に布を干していると、どこからか牛が一頭やってきて、その角に布を引っかけて走り去ってしまい、老婆は怒りながらその牛を追いかけていったところ、とうとう善光寺の金堂前まで来てしまった。
日は沈み牛はかき消すように見えなくなった。ところが善光寺の仏さまの光明がさながら昼のように老婆を照らし、ふと、足下に垂れていた牛の涎(よだれ)を見ると、まるで文字のように見え、その文字をよく見てみると
「うしとのみおもひはなちそこの道に
   なれをみちびくおのが心を」と書いてあった。
するとおばあさんの心に仏の心が芽生え、すっかり信心深い人間に生まれ変わってしまった。

★転じて「思いがけず他人に連れられて、ある場所へ出掛けること。また、他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれること」のたとえ。

牛のお導きもあってか、穏やかで、やさしい、いい旅でした。
皆様が、良い方面に行けることを願っています。

父母の旅路(平成2年5月のフォトファイル) [よしなしごと]

断捨離で物置代わりの洋間などを整理していたら、父母の晩年の旅行のフォトファイルが出てきた。写真の横にちょっとした説明文などが添えられるやつだ。捨てるつもりが、中に写真とともに、父の詠んだ俳句がちりばめられているのに気付き、つい読み出しとまらなくなった。(父は若い頃に大正期から昭和にかけての「ホトトギス」を代表する俳人原石鼎に師事していた。)
俳句のブランクは云十年だろうが、77歳で仕事をリタイアする前後からは気ままに作句していたのだろう。(中に俳句を走り書きした広告の裏紙があったので、それをフォトファイルに母が書き写したようだ)
萩は、父の先祖の地だ。長州藩士の末子で他家に養子にだされていた祖父は、まだ少年で明治維新に間に合わず遅れて上京したと聞いている。 
父は、祖母が40歳過ぎの頃生まれたので、当時としては、相当の高齢出産だったようだ。

さて、旅行の行程は以下のように記録されている。
1.下関   --平成2年5月21日
2.秋吉-萩  --平成2年5月22日
3.萩    --平成2年5月22日~23日
4.萩・大濠・柳川--平成2年5月23日~25日
5.柳川・大宰府 --平成2年5月25日

父母は、終戦後まもなく結婚したため、新婚旅行先の伊東に行くとき列車はすし詰め状態でまともには乗れなかった。やむなく便所の窓から中の乗客に助けられてようやく乗ったので、それ以来「臭い仲」になったという冗談を、何度もしていたのを記憶している。

<下関~博多・門司港駅など>
雲海の涯にありけり五月晴 機上にて 

平2.5.21下関3-博多-門司雲海の涯にありけり五月晴 機上にて よしお.jpg


博多-門司港駅 初夏の日のただひろびろと駅古りて

平2.5.21下関5-博多-門司港駅 初夏の日のただひろびろと駅古りて2.jpg


関門橋和布苅(あかり)の山の緑背に

平2.5.21下関7-門司→関門橋和布苅(あかり)の山の緑背に3.jpg


人の才を集めて成りし水底の道にこの世はいやさかゆかん

平2.5.21下関9-関門海峡-人の才を集めて成りし水底の道にこの世はいやさかゆかん2.jpg



<秋吉・萩>
秋吉の若葉のかげの野の佛

平2.5.22秋吉、萩4-2秋吉の若葉のかげの野の佛.jpg


ひそとあり若葉のかげの野の佛

平2.5.23萩、大濠、柳川-2-熊谷美術館中庭-2.jpg


<萩>指月荘
初夏の夜の潮騒遠き目覚めかな
夏みかん喰べて憩う海の前

平成2年5月22日-東萩指月020522-23001.jpg


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【横光利一-】指月公園
蓬生ふ銃眼の中海光る

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平2.5.22萩5-指月公園銃眼土塀-横光利一-蓬生ふ銃眼の中海光る-3.jpg


【先祖の知行していた?と聞く山口県阿武郡佐々並村の1980年前後の頃の写真】

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<大濠・柳川・大宰府>柳川川下りなど

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2002年9月1日没 父、享年八十七。
2010年1月2日没 母、享年八十九。

※なお、父の俳号は有桁(ゆうこう)であった。口が大きいのでアリゲータ(ワニ)から師石鼎がつけてくれた名前だ。タケシ軍団の命名とは違う。

《母から亡父へのラブレター》俳句は俳人有桁こと父の作、絵は母が描いた。

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【レクイエムrequiem】

◆奇妙な夢を見た
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◆父の買ってくれたブリキのロボット 
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◆父の中国留学~戦後70年
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2015-08-15


ボヘミアン(Bohemian)のTちゃんと銀座で~2015 [よしなしごと]

銀座は好きな街である。早い時間に行くと爆買の皆さんがあふれかえっているため、初めに京橋近く(銀座一丁目)の銀座長寿庵で久しぶりに鴨せいろを食した。ゴマと唐辛子をふんだんにかけるのが、自分流である。鴨の香りが鼻腔に昇ってきて満足満足...
さて、銀座へは長寿庵から徒歩で10分ぐらいか、同行は永遠のボヘミアン(Bohemian)のTちゃんである。真っ暗だった一時期に比べると大分銀座らしく華やかになってきた。

Tちゃんは、世界を自転車で旅している。最近ヨーロッパに凝り始めたら、このたびパリ同時多発テロが発生。それでも、近いうちスペインからパリに自転車で行くらしい。大事なことは、私たちはああいったことにひるまず、今まで通りに過ごしたり、チャレンジすることだと思う。永遠のボヘミアン(Bohemian)のTちゃんの果てのない旅の無事を祈りたい。

《銀座長寿庵》
元祖 鴨せいろ の店。自分は、ここの味・香りが好きである。ラ・ベットラ(イタリアン)やカイバル(インド料理)がご近所なので、あまりはずれがない地域だ。

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《ボヘミアン(Bohemian)のTちゃん》

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《銀座の街とやたら増えたブランドショップ》

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【関連記事】
◆ボヘミアン(Bohemian) Tちゃんと会った 
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-02-01

父の中国留学~戦後70年 [よしなしごと]

2015年8月15日、日本は戦後70年を迎えた。
「戦争で本当に苦労した人は、悲惨な戦争のことをあまり語りたがらない」という。

生前父は「中国に2度“留学”した」と私たち子供によく冗談を言っていた。父が何歳の頃かは失念したが、かなり歳をとってから2度目の出征となったらしい。戦争で負けが込むと兵隊に行くのに年齢は関係ない。父は、この2度目の出征で日本の厳しい戦況は理解していた。戦争に行ったことを“留学”と冗談で言う父はさほど戦地で苦労しなかったのかというと、そうでもなかったようである。すべてユーモアに包む父の性格から来ていると今では思っている。

◆従軍看護婦
最近、戦時中戦地に赴いた従軍看護婦が話題になっているが、彼女たちの過酷な話として、戦争の後半は死体を片付ける毎日だったと言う。その話で、ふと父が「従軍看護婦に命を救われた」話を思い出した。
チフスか何かに罹って、生死の境を彷徨っていた父の病状も重くなり、ある日、いよいよ、今晩にはもたないだろうと軍医などにみられていた。ところが、奇蹟が起こって、その翌朝には病状は急回復したのだ。実は、その日の夜勤当番の看護婦が、自分の当番の夜中に「死体を片付ける」のが嫌で、嫌でしょうがなかった。どうせ死ぬにしても自分の当直日にならぬよう、兎に角一晩持てばいいやと、こっそり当時貴重なモルヒネを父に何本か投与していたのだが、どういうわけかそのモルヒネが効いたのだ。
後日、その秘密を看護婦自身から聞いた父は当初愕然としたが、よくよく考えてみれば、その死体を片付けたくなかった看護婦が命の恩人だと、改めて思ったそうである。

◆銃撃をしくじった安堵
無線兵の父は、あまり敵と撃ちあうことはなかったといっていた。それでも、何度か交戦して撃ちあいになったことがあり、一度敵兵を銃撃して敵が倒れたと思った瞬間があった。しかし、敵は突然立ち上がって脱兎の如く逃げ去ったことがあり、その時は真に残念で悔しく思ったそうだ。しかし、戦後平和になって、戦時中一度たりとも人を殺めることなかったことは、本当によかったとつくづく思うようになったと語っていた。
:2002年9月1日に父は亡くなった。享年 八十七。

父は戦争を多くは語らなかったが、それでもユーモアのオブラートで包める話はしてくれた。一方、ハルマヘラ沖で米軍に船を沈められ、恐怖の海をさまよった伯父は戦後、戦争のことをあまり語らなかった。その伯父のことを「戦争で本当に苦労した人は、悲惨な戦争のことをあまり語りたがらない」と母が言っていた。語ることもできない悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない。それこそ、知恵と工夫、全能を費やして戦争は阻止しなくてはならない。
戦後70年、この国の為政者は未だに国民に詫びていない。


  《戦時中の中国蘇州から母への絵はがき》
☆蘇州中支派遣第8019部隊….表には、詩を作ったことが書いてあった。戦時下のラブレター。亡くなった父の母への想いの詰まった葉書や手紙のスキャナーを母に頼まれたがあまりの多さと、自分の多忙もあって断念。この1枚しか残っていない。

父のはがき-蘇州中支派遣第8019部隊-裏.JPG


《母から亡父へのラブレター-平成時代》
2010年1月2日 その母も亡くなった。享年八十九。
俳句は父の作、絵は母が描いた。

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父の買ってくれたブリキのロボット [よしなしごと]

まだ、7歳か8歳のとき、クリスマスのプレゼントに近所の弁護士のボンボンが持っているのと同じリモコンのロボットを所望した。
帰宅した父が買ってきてくれたお土産の箱を開けると、中に鉄人28号とは似ても似つかないぜんまい仕掛けのブリキのロボットが入っていた。
泣いた。「リモコンじゃない」と泣きじゃくる私に、父は怒り、そのブリキのロボットを取り上げ、庭に投げつけた。
その時の父の顔は、今となっては微細に覚えていないが、なんだか、ひどく悲しい顔をしていたように記憶している。母がどう取り繕ってくれたかは、不明だが、のちにそのブリキのロボットに相撲させて強かった記憶も残っており、おもちゃ箱の中には、中学生になるころまで入っていた。
今、おもちゃコレクターの間では、世界的にブリキのおもちゃが大層人気らしい。

大正4年4月4日生まれ(母親が40歳の時で、今でいう高齢出産)の父は、旧制府立一中卒業間際に父親代わりとなってくれていた養子の兄が急逝した。その兄とは血のつながりはないが、大年という雅号で文部大臣賞を受賞した篆刻家で、当時は相応に名も知られていたらしい。一中の授業料が払えなくなり、学校に行こうとしない父を見て、作品の篆刻を売っては、学費を出してくれたようだ。その兄の急逝もあり、一高、帝大に当然進むつもりでいた父は、中学卒業と同時に就職した。こうして、まだ健在だった自分の母親と兄の家族も、背負うことになった。誰も助けてくれなかった。皆が余裕のない時代だったのだろう。
戦後は、食えないので、勤めていた会社(今は日本有数の旅行会社)から、戦友の経営する履物販売会社に誘われ転じたが、日本人が和服を着なくなるのと同時に徐々に下駄、草履の類は衰退し、苦労は続いた。
酒を飲むと旧制第一高等学校の代表的な寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」を口ずさむ父を理解するようになったのは、自分がずいぶん大人になったころだった。今、あのブリキのロボットを庭に投げ捨てた時の父の顔を「悲しそうな顔」だったと確信しているのも、自分が随分年をとったからかも知れない。
2002年9月1日に父は亡くなった。享年 八十七。

《昭和36年4月 父と私》

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別所沼のほとり-The banks of the swamp Besshonuma [よしなしごと]

約100万年前、大宮台地から湧き出した水が低地に溜まり、沼になったものだそうである。
別所沼には、沼の底に大蛇が住んでいると言われ、どんなに日照りが続いても水が涸れることがなかったという伝説がある。
また、浦和在住者にとっては、行くところが無いと、とりあえず別所沼である。
桜の咲くころには、大変な人のにぎわいだけど、公園らしい公園と言うか、春爛漫な感じが満ち溢れる。
晩秋というか冬の始まりは、釣りを楽しむ人たちも多く、木々も冬めいてそれなりの趣がある沼である。
11月に入って、その別所沼を散策した。

《別所沼のほとり》

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《竜舌蘭の咲く頃~2003年8月》
2003年8月3日、先代のWESTIEピーチャンを連れて、今は亡き義父と一緒に、50年ぶりに花が咲いた竜舌蘭を別所沼に見に行った。その翌年、5月18日に義父は亡くなった。
花の咲いたのが2003年だったので、後40年は咲かない。自分も、そのころは生きていないだろう....

20030803竜舌蘭-別所沼0003.JPG



◆別所沼公園
バス停

国際興業バス 公園坂上(別所沼公園)下車
〒336-0021 埼玉県さいたま市南区別所4.

《関連記事》

◆The banks of the swamp Besshonuma Ⅱ
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2014-09-23-1


タグ:別所沼公園

歴史を学ぶと、人間が歴史から学んでいないことが分かる......八合目? [よしなしごと]

「歴史を学ぶと、人間が歴史から学んでいないことが分かる。」とは、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)の言葉ですが、

2013年2月4日時点-円安加速、93円台/ドルに 2年9カ月ぶり だそうです。1ユーロは、125.47 円也...こちらは、どうもヨーロッパに盛んに観光に行っていた頃、137円/ユーロぐらいだったので円安の感がいまひとつ有りませんけど。
それでも、異常な円高是正のつもりなのに、円高で困り果てている時には何もしてくれなかったドイツさんあたりも、円安誘導と批判しだしたらしい。世界は、身勝手のために........................

25年以上前、ジャンボジェット機を購入した方が、1機180億円ぐらいで買っちゃったとかおっしゃっていました。バブル前夜ですので、当時160円/ドルですから、今、円安になってきたと言っても隔世の感が有ります。航空会社に22億円/年リースで10年もすれば取り戻せるとのことでしたが、お伺いするたびに保有飛行機が増えていきました。その後、お達者なのだろうか?

それは、さておき、歴史は繰り返すで、また数年経ったら再び円高になるでしょうけど、人材リストラしか知恵が無かった日本の企業経営者の皆さんが、ばね効くのかが?わからんですね。でも、その頃は、花道飾ってご勇退か?

《富士山:頂上に到達する前に御来光....モヤ、もや・・・1998年8月》

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同じく、ヘーゲルさんの言葉「情熱なしに、達成された偉大なことなど、この世にはないと自信を持って言える。」

TOPIC>>
※我が家の愛犬Pieechanが、The Terrier Clubの Image Of the Weekに選ばれました。
(2月25.日以降Low Archivesに掲載)

<お題:Pieechan lives a quiet life >
http://www.terrierclub.com/mainfold.php?nav=feb13.htm&arc=feb133.htm

「市村座」…….“夢の時代”のコラボレーション [よしなしごと]

曾祖父の須恵庄蔵は、大工の棟梁で芝居小屋「市村座(下谷二長町時代)」の営繕工事に長年携わり、舞台の仕掛けについては定評があったことは既に述べた。

《岩瀬釜吉とよう》~URL参照

https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-04-14

「市村座」は1634年(寛永11年)に村山又三郎が興した村山座に始まり、1652年(承応元年)、市村羽左衛門が興行権を買い取り「市村座」とした。江戸時代に中村座、河原崎座(森田座のちの守田座)とともに江戸三座とうたわれた大歌舞伎小屋だったそうである。

当初、日本橋葺屋町(現・日本橋人形町3丁目)にあったようだが、1842年(天保13年)浅草猿若町(現・台東区浅草6-18-13 <猿若町2丁目>)へ移転した後、1892年(明治25年)下谷ニ長町(現・台東区台東1丁目5番地)に再転した。移転後、町は俄かに賑わい始め、その名は瞬く間に東京中に知れ渡った。

曾祖父が、「市村座」で大工として腕をふるっていた時代は、どうやら六世尾上菊五郎や人気役者初代中村吉右衛門が演じ、いまでも語り草の名舞台の数々が生み出されていた、いわゆる二長町の「菊吉時代(大正時代)」とも重なっていたらしい。

絶頂期の「市村座」は、きっと当代一流の役者とそれを支える曾祖父たち職人(大工)とのワクワクするようなコラボレーションが実現していた“夢の時代”だったのだろう。

《「市村座」の碑…台東区台東1丁目5番地~凸版印刷本社》
良く見ないと、見逃してしまう「市村座」の碑。JR秋葉原駅から徒歩5分、凸版印刷本社に向かって左端の植え込みにそっとある。詳しいことは以下の碑文参照。

120728市村座の碑_02.JPG



120728市村座の碑_04.JPG


市村座は1923年(大正12年)9月1日関東大震災で被災、消失、その後バラックで再建されたが1932年(昭和7年)、楽屋からの失火で焼失した後は再建されることもなかった。


岩瀬釜吉とよう [よしなしごと]

《昭和26年10月1日 お宮参りの私を抱く祖母 岩瀬よう》

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岩瀬ようは、※岩瀬釜吉の妻である。つまり、私の母方の祖母である。釜吉同様全く無名の人である。明治26年頃生まれ、1985年(昭和60年)92歳で没した。平凡な庶民だったが、誠に数奇な運命をたどった明治の女でもある。
ようは、180名ぐらいの大工を擁する、今でいえば中堅工務店の棟梁だった須恵庄蔵の四女として生まれた。生まれは神田で、渋谷、浅草三好町(現蔵前)、深川と移り住んだようだが、詳しいことは知らない。

渋谷時代の彼女は日本の職業婦人のさきがけ電話交換手をしたり、恋愛を頻繁にしていた年頃で、ひと際目立つ美しいお嬢さんだったようだ。
その頃は、省線(後の国鉄、JR)の渋谷駅のまん前に住んでいた。たまたま、自分が仕事で知った渋谷駅近くの貸ビルオーナーが、明治時代に竹屋を営んでいたと話していたので祖母に竹屋の名前を言うと、「ああ、竹屋の××ちゃんのところか」 と懐かしそうにしていたのを今でも覚えている。   
しかし、彼女は、「ある事件」をきっかけに大好きな渋谷を去らざるを得ないことになる。
ある日、彼女のことを一方的に好きになった大学生に葉山の一色海岸での心中を持ちかけられる。唐突な申し出にその気はなかったのに、何ゆえか、一緒に入水。途端、自分が何をやっているのかわからず、兎に角「生きよう」と思ったようである。死にたかった男は死に、生きたかった祖母は助けられ、当時の新聞に大きく載った。時代背景からして「心中者」で、しかも、自分だけ生き残った「不実な女」として、猛烈な指弾を浴びたことは想像できる。気が進まないのに「はい」と言ってしまう愚かしいほどの「従順さ」を母が「でも、昔の女(ひと)は、そうよねえ」とかばっていたのが印象的だった。

 一家は、追われるように三好町に引っ越すことになる。須恵庄蔵の仕事は充実期を迎えており、祖母の話では、家は「三好町の御殿」と言われていたとのことで、一階部分で建築金物の販売も併営、心中者の祖母が気晴らしに毎日店番をしていたようだ。
 深川木場の検非違使岩瀬釜吉は、そんなようを見て一目ぼれ、必要のない建築金物を毎日買いに行き、家中いっぱいになって往生したとのことである。夫婦になろうとの釜吉の申し出に、ようは「心中者」であることなどを理由にいったん断ったが、釜吉はひるまず「そんなことは、かまわねえから、いっしょになろうよ」と遂にくどき落とし、夫婦になった。
 
そのあと釜吉とようは一男二女を儲ける。末っ子の私の母によると、釜吉は「結婚する前はとても優しかったけど、結婚したら、それは、それは口やかましい人で、おばあさんもびっくり、大変な思いをしたことだろう」と笑っていたのを覚えている。

因みに岩瀬ようの父(曾祖父)須恵庄蔵は、明治初年頃生まれ昭和10年代には没していたとみられるが、74歳まで生きた。祖先は現在の稲城で大名の庇護をうけた角力だったとのことだ。
三好町当時は清水組(後の清水建設)などからスカウトが来るほど引く手数多の腕の良い中堅大工店であった。しかし、義理堅い人で若いころから世話になった宇佐美組(後に衰退)の傘下で居続けたため、一代で終わっている。なお、江戸三座とうたわれた芝居小屋市村座(二長町:今の台東区台東1丁目の凸版印刷本社に碑が残る)の営繕工事や××返しなどの仕掛け、旧日本赤十字本館などを手掛けていた。特に、舞台の仕掛けについては定評があった。死後、戸板に墨書きした設計図を××円で譲ってほしいという人達が、長男を訪ねてきた。酒飲みの長男は、それに同意したため、戸板(いまでいえば特許)を全部もっていかれ、永遠に須恵庄蔵の名は、消えて行くことになる。明治村に旧日本赤十字病院棟が残っているが、庄蔵の仕事が残っているかどうかは、今となってはわからない。また、市村座は1923年(大正12年)9月1日11時58分に関東大震災で被災、消失、その後バラックで再建されたが1932年(昭和7年)、楽屋からの失火で焼失した後は再建されることもなく、江戸三座以来の伝統を持つ市村座は跡を絶っているそうである。

<関連年表>

・1923年(大正12年)9月1日~岩瀬一家関東大震災で被災し、霊岸島(現在の新川界隈)に転居
・1931年(昭和6年)~深川区牡丹町(深川平富町1-2丁目、深川佃町、深川牡丹町)となる。岩瀬釜吉とようは夫婦になって、この深川牡丹町で戦前まで暮らしていたようである。
・1932年(昭和7年)~江戸三座 市村座消失 

《母の従妹馬場志づの話~昭和初期と思われる》
牡丹町の岩瀬の家に遊びに行くと、子供は遊んで汚れていることがあるので、家に入る前に釜吉叔父さんが、銭湯の代金を出してくれて、「湯に行ってくる」慣わしになっていました。家中、家具調度は真ちゅうだらけで、兎に角ピカピカに綺麗だったのを記憶しています。


【関連】
<※岩瀬釜吉と富岡八幡宮>

https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-03-08-1


《「市村座」…….“夢の時代”のコラボレーション》 

https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-08-03
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