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上野原スタンド・バイ・ミー(Stand by Me)-國夫さん故郷に帰る [昭和時代]

國夫さん(くんちゃん)は、2020年2月に突然亡くなった。コロナ禍の喧伝され始めたころであるため、兄弟の様にしていた親戚の我々さえも4月の納骨式の頃には出席できなくなった。コロナは愛を奪うといった小説家がいたが、人の営みの礎である人情の機微や思いをすべて引き裂くことはできないはずである。

《2019年11月 わが個展に来てくれた》
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國夫さんは、亡くなって、暫く山梨県上野原市の慈眼寺(じげんじ;曹洞宗)の両親の眠る代々の墓に眠っていたが、2021年2月、同じ墓地内の両親の近くに新しいお墓ができたと、國夫さんの妹さんから知らせを受けたため、3月23日、伯父、伯母の葬儀以来となる上野原を訪れた。
今回は、お墓参りはもちろん、今から60年近く前、毎年夏に訪れた上野原の渓流や自然、そして街並みなど見て回ろうと、観光協会で電動自転車を借りた。

《上野原駅とさびれている北口》
上野原駅に着くと、大概、おばや親せきの誰かが迎えに来てくれた。

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《國夫さんの慈眼寺のお墓》
國夫さんと子供のころ遊んだ、川が近くを流れる慈眼寺という寺にひっそりとたてられている。
多くの人に囲まれて過ごし、ずっと一緒にいてほしいとの思いを込めて「Together Forever」と確かに墓石に刻まれている。

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《桂川ほか思い出の風景》
思い出の風景は確かに様変わりしているが、川(桂川)の流れは変わらない。

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《山下の先》
山下の上流は、クリーンセンター(清掃工場)になっていた。かつて素っ裸で、突然来たバスから大笑いされた橋まで行く気力は失せた。

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《わが兄弟の作句》
わが弟(きんぎ岩アドエンチャーに記した味噌っかすの弟である)が、作句した俳句。
「春あらし 君ひそやかに 逝くを知る」

<六地蔵>
きんぎ岩に行く途中の道に六地蔵があった。 仏教では人間が死んだ後、生前の善行や悪行によって行く先が地獄、餓鬼(がき)、畜生、修羅、人間、天の六道(りくどう)に分かれる。六道における苦しみを救う6種類の地蔵菩薩

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今回は、きんぎ岩に行こうと古老に道を聞いたのだが、集落を抜けたところになかなか行きつかず、帰りの時間もあり断念したのが、とにかく心残りだった。小学生の子供がこんなに遠くまで来ていたのかと、驚いた。次回こそ....

國夫さん、また来るよ。Together Forever

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上野原スタンド・バイ・ミー(Stand by Me)最終章(VOL.2)~アフリカ篇 [昭和時代]

子供のころから兄弟のようなお付き合いをしてきた従兄の國夫さんは、2020年2月27日に亡くなった。2020年4月11日には生まれ故郷の上野原に納骨している。享年71。

アフリカには、再三行ったので奇妙な光景には何度となく遭遇したようだ。既述のゴルフに行くとき警官に銃口を突き付けられ、金品を奪われたのもエチオピアかどこかでのことだ。また、スーダンでは飛行機の中からジャングルにスーダン航空のジェット機が墜落しているのを見たと言っていた。ジャングルの中なので救援にも行けず放置されたままであったそうだ。國夫さんの話は別に話術がうまいわけではないが、情景がすぐ目に浮かぶのだ。

さて、南アフリカは、1994年までアパルトヘイトと呼ばれる有色人種に対する人種差別で知られ、同年4月ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任、人種差別が撤廃された。
國夫さんはその人種差別が撤廃される以前の南アフリカでトラックを販売していた。南アでその時代日本人は「準白人」として白人に準ずる扱いを受けていた。
ある日、地元企業の工場を視察していた時に、尿意を催し、その企業の白人担当者にトイレに行きたい旨告げた。近くに発見したトイレがあり、行こうとしたら、黒人専用のトイレで使ってはいけないと強く押しとどめられた。
しばらくは我慢していたが、結局、制止を振り切って黒人用トイレに行き、事なきを得た。
國夫さんは、そういうことを、杓子定規にならずいとも簡単にできる人だった。

今や、南アフリカはゲイリー・プレイヤーやアーニー・エルスといった歴史にその名を刻む世界的ゴルファーを数多く輩出するゴルフ王国と言われるが、「準白人」のいかにも東洋人の風体の國夫さんもきっと名門ゴルフ場でのどかにゴルフを楽しんでいたに違いない。

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《キャディーが3人》
最近の日本のゴルフは、アメリカ並みにキャディーなしの、セルフ中心となったが、大昔はキャディーがつくのが当たり前、それでも4人1組としても1人のキャディーであった。
國夫さんは、南アフリカでゴルフをするときは、キャディー(黒人)が3人もついてきたそうだ。
間違いなくOB性のあたりで、一度、林の中にでも入れると、バックを持つキャディー以外の2人が林の中に素早く入り、見つけ出す。OBであろうと、必ず白杭から内側のセーフの位置にボールを置きなおし、「マスター(旧英国領です)、ここにあります」といわれたそうだ。「彼らはチップが欲しいのだよ」と楽しそうに笑っていた。
(注)OBはアウトオブバウンズ(Out of Bounds)の略である。プレーが出来る区域外のことを意味する 白杭と白杭を結んだ線から外だと OBとなって、内側はセーフ。OBは 1打罰で もう一度打席一から打ち直しで実質 2打の損失になる。

《池ポチャ狙いのボール争奪戦》
アフリカのゴルフでよく聞かされたのは、地元の貧しい少年が、池越えのコースなどでゴルファーが失敗して池ポチャするボールをとろうと、思い思いの布製グラブを作って、池に入っていた話である。國夫さんはその彼らの頭上を取られないようにティーショットを打っていた。
当初は、危ないので、何故どけないのかいぶかしく思ったが、どかない。次第にわかったのは、貧しい彼らにとって、ゴルフボールは高価で、ゴルフ場としても暗黙の了解で池ポチャで取得したボールは彼らのものとし、買い取り、ロストボールで販売する仕組みだったらしい。

◎こんな感じ?

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<同じ光景>
自分は2006年8月に中国杭州を旅行したが、フーチュンリゾート(富春山居)に宿泊した。北京オリンピック前でそこら中工事中だったが、フーチュンリゾートに一度入ると、その中は静寂そのもので、目の前が美しいゴルフ場だった。当時はゴルフをしているのは日本人が中心であったが、朝、レストランから湖の対岸のゴルフ場を眺めていると、日本人と思しきゴルファーが1人おり、女性のキャディーが3人、ボールをティーにセットするのも、キャディーが行っていた。王侯貴族のようなゴルフだが、ボールは貴重品で、コースを外れ畑の方に入ると、取りにいかないルールになっていると聞いた。作業員などが拾いゴルフ場が買い取りロストボールで販売される。
そういえば、國夫さんも中国の杭州は何度か仕事で行っており、このフーチュンリゾート(富春山居)でゴルフをしたことがあると言っていたのを思い出した。

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上野原スタンド・バイ・ミー(Stand by Me)最終章(VOL.1)~國夫さんを追悼する [昭和時代]

学生時代、アーネスト・ヘミングウエイの小説で、ニック少年が鱒釣りしながら川下りする短編小説を読むと小学生時代の夏休み山梨県上野原町で過ごした日々を思い出した。
山梨県北都留郡の旧上野原町(平成17年2月南都留郡秋山村と合併、上野原市となり消滅)には、自分の小学生時代(昭和30年代)親戚の家があって、子供は3男3女(実は親戚に1人養子に出していたので7人)だった。兄と同学年の一歳上の従兄(三男)國夫さんがインストラクターだった。毎日が楽しい冒険の日々だった。

《上野原で~國夫さんは左、右は兄》

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そんな子供のころから兄弟のようにしていた従兄の國夫さんが、コロナ騒動の2020年2月末突然死していた。3月に入り連絡が取れないと騒ぎになり自宅マンションで発見されたのは3月5日だった。一人暮らしだった。死因や死亡日不明ながら26日に医者に行ったこともわかり、2月27日が亡くなった日とされた。1週間近く経過していた。ただただ残念で不憫だった。
......2020年4月11日 生まれ故郷の上野原に納骨………享年71...........

《ゴルフ好きだった國夫さん》

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國夫さんは、現役の時はアフリカや中近東、そしてアジアに渡りトラックを売りまくっていたが、南アフリカやエチオピア、台湾などいたるところでゴルフを楽しんでいたようである。自分は同じ県内の近くに住んでいたので、たまに一緒にゴルフを楽しみ、お酒を呑みながら、海外の珍しい話の中にある物事の真理ともいうべき事柄をたくさん聞かせてもらった。数年前に脳梗塞で入院、リハビリで回復したが、その後は大好きだった、たばこは吸わなかったが、ゴルフや酒は続けたし、発想力のある話題も変わらなかった。
そんな國夫さんを偲び、自分なりに咀嚼、解釈した話を今後いくつか紹介していくこととする。

(VOL.1)「見た目が透明」というみせかけに騙されるな
國夫さんは、中近東に渡り、トラックを売りまくっていた若い頃、危険な目にも何度となく遭遇している。アフリカのある国でゴルフ場に行く途中、あろうことか呼び止めた警察官から頭に銃口を向けられ金品を要求されたこともあった。そんなスリリングな毎日、おのずと生き抜く知恵をつけていかなくてはならなかった。
水は人間の生存にとても大事だが、彼の言っていた究極の環境下の水の安全の確認方法は、「透き通っている」などという見た目ではなく、「蚊の幼虫、 ボウフラが泳いでいるか?」 だそうで、泳いでいれば一目で毒がないとわかるという。
リコール隠し等組織ぐるみの隠ぺいにより、いくら透明な綺麗な水に見せかけても、それこ そボウフラの住めない毒水のようなもので、いつかはューザーに災厄(さ いやく)を もたらし、裏切りが露見して、破たんに至るのである。


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上野原スタンド・バイ・ミー(Stand by Me)Ⅱ~きんぎ岩アドベンチャー [昭和時代]

学生時代、アーネスト・ヘミングウエイの小説で、ニック少年が鱒釣りしながら川下りする短編小説を読むと小学生時代の夏休み山梨県上野原町で過ごした日々を思い出した。
山梨県北都留郡の旧上野原町(平成17年2月南都留郡秋山村と合併、上野原市となり消滅)には、自分の小学生時代(昭和30年代)親戚の家があって、子供は3男3女(実は親戚に1人養子に出していたので7人)だった。兄と同学年の一歳上の従兄(三男)がインストラクターだった。毎日が楽しい冒険の日々だった。
大概は、親戚の家で作ってくれたおにぎりなどをもって、近くの地元で山下(通称)と言われていた清流を釣行し、下流で土手を登り、当時全く舗装されていない土煙あがる甲州街道に出て、歩いて帰ってくる。道すがら湧き水もあって、暑い夏には清涼でおいしかったのを覚えている。
そんな山下アドベンチャーに負けず劣らず楽しく遊んだのは、桂川と鶴川が上野原駅近くで合流しているあたりにあった「きんぎ岩」だ。川に中洲があり岩がある。地元の子供たちが、きんぎ岩と言っていた。金魚に似ているので金魚岩という説もあったが、”杵岩の鉛”の由で金魚岩は間違いであることが判明した。子供同士の話なので、今となっては何故金魚が出てきたか謎である。

◇きんぎ岩アドベンチャー
国鉄上野原駅近くの相模川上流の桂川(山梨県での呼称)は、昭和30年代はアユ釣りの名所であった。今は禁止されているが「ひっかけ」という釣法が主流だった。たくさんの針が付いていて、アユをひっかけ釣り上げる荒っぽい釣り方だ。たくさんの大人たちが鮎釣りしている桂川上流には、我々子供たちが遊ぶ場所はなかった。
きんぎ岩はそんな鮎釣り場から少しく下った桂川の中州にあった。浅いので大人たちも釣りをしていないため、子供たちの遊び場としては絶好だった。水着に浮き輪を付けたたくさんの子供たち、幼児たちも川の浅いところで水遊びしている。
従兄と私たち兄弟は、少しは泳げるので中洲まで泳いで行っては岸に帰ってくる。時には水中眼鏡で潜って川底を見て楽しんでいたものだ。

◆水中から見た泡だつ青空

よくよく考えてみれば三つ違いの弟は自分が小学5年生の時でも2年生なのだ。土手を駆け上るのも、駆け降りるのも兄たちについていくのはやっとで、泣きそうになりながら土手を降りてきたこともあって、「みそっかす【味噌っ滓】」扱いされていた。
きんぎ岩付近は川の中洲まで少し泳がないと渡れない。川底は突然深くなっているのだ。
ある日、そんな「みそっかす【味噌っ滓】」の弟が、兄の自分が泳いで渡ったのをみて中洲まで泳いで渡る途中、突然目の前でおぼれた。自分もその頃は、そんなに泳ぎは得意ではない。周りに従兄や兄たちはいなかった。ままよとばかりに助けに行ったが、“溺れる者藁をもつかむ”というが、弟に飛びつかれた藁ならぬ自分は見事に水中に沈み水底から泡と青空を見る仕儀となった。幸いなことに、弟は何とか浅瀬にたどり着き、自分も難を逃れたが、あの時水中から見た泡だつ青空は今でも忘れられない。

自分が高校生2年生になった頃(1968年)、近くの山梨県柳川(渓谷)でキャンプをやり、帰りに上野原に立ち寄った。従兄(二男)の案内で川に行ったが、その時には、すでに川の一部は汚れていた。その後10年程経過して、大人になって知り合った山梨出身の砂利採掘業者に聞いた話では、山下付近の川は砂利が豊富に取れるので、取りつくされ川は変容したと聞かされた。
僕らのワンダーランド上野原の冒険が終わったことを実感した。

《桂川》

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上野原スタンド・バイ・ミー(Stand by Me)Ⅰ [昭和時代]

学生時代にアーネスト・ヘミングウエイの小説で題名は忘れたが、ニック少年が鱒釣りしながら川下りする珠玉の短編小説を読むと、必ず小学生時代の夏休み山梨県上野原町で過ごした日々を思い出した。
山梨県北都留郡の旧上野原町(平成17年2月南都留郡秋山村と合併、上野原市となり消滅)は、東京と山梨と神奈川の県境に近くにあった。今は都心への通勤圏としてベッドタウン化がだいぶ進んでいる。
その上野原には親戚の家があった。今もある三生会病院の裏側にあったと記憶している。嫁入り前の長女や大学生の長男を筆頭に子供は3男3女(実は親戚に1人養子に出していたので7人)だった。

自分は東京目黒の生まれ、今から50年以上前も目黒に住んでいた。小学生時代(昭和30年代)、夏休みになると、時に一番上の姉も一緒に行くが、私と二つ違いの兄と3歳下の弟は毎年のように山梨県の上野原の親戚の家に2週間ほど遊びに行くのが常だった。特に、上野原の伯父は、日産自動車に勤めていたが、確か営業部長の時に、独立し日産の下請けなどに携わる町工場を起こした。昭和30年代から始まった日本の高度経済成長に歩調を合わせるかの如く会社も業容を拡大、当時は子供の目からみても大層羽振りが良く見えた。バス停が自宅工場前に設置される際、広い工場内の敷地に桜の木がたくさんあったことから、伯父が「桜ヶ丘」と命名したぐらいだ。(今も地図上には桜ヶ丘を冠したハイツ名などが近隣に記載されている)
自宅では、母の手作りの料理ばかりだったが、上野原に行くと母の姉である伯母はしょっちゅう店屋物を頼んでくれたし、お小遣いを分け隔てなくくれるのが自分達には大層うれしかった。

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◇山下(近所の小川)からの釣行(川下り)は子供のワンダーランド
上野原の親戚の子供たちは、私たち兄弟よりずっと年上だったので、自分の長兄と同年の一歳上の従兄(三男)が子供にとってはめくるめくような上野原の冒険ツアーの道先案内人だった。今風に言えばインストラクターだろう。
その親戚の家から徒歩10分以内で行けるところに地元で山下(通称)と呼ばれる小川があったのを記憶している。山下は今思えば相模川支流とみられるが、私たちが川遊びに行った当初は清流だった。
私たちは、その山下から下流に向けて、時にすっぽんぽんで水泳を楽しみながら毎日のように釣行し、時には相模湖まで行きついたこともあった。
釣り道具は、糸と針は買いに行くが、釣り竿は山下に行くまでの道沿いの藪に生えている“しの(篠?)”と言われる竹笹の一種だろうが、それを折って使った。えさもうどん粉を水を加えて練ったものや石の裏に生息する川虫で、重りは、当時酒瓶のキャップなどについていた板状の鉛をはがして使用していた。
獲物となる魚ははや以外の大半は地元で「にがっぱや」といわれていた小魚だったが、クチボソ程度の大きさで、未だに本当の魚の種類はわからない。 

《自然の愉しみ》
私たちは魚の姿を追いながら、清流の岩場を進んでいくのだが、草や樹木で日の光が十分入らない薄暗い清流の上を悠然として飛んでいくトンボの最高峰オニヤンマに遭遇したり、両側を高木で囲まれた小川の数多ある石の上に静かにとまっていた蝉の膨大な抜け殻など“象の墓場”を連想させるような神秘的光景に出くわすこともあった。また、ある日、堰のたまりのあるところで釣りをしていたら、雨が急に降り始めた。何故か釣りは入れ食い状態になり、自然の面白さに僕らは感動して、誰も帰ろうと言わず皆で釣りを続けたのだ。しかし、僕たちが、雨が降っても帰ってこないので親戚宅では、伯父たちが大層心配し大変な騒ぎになっていた。結局、工場の社員の方に発見され車に乗せられて帰宅したのだが、鉄砲水でもでたら、幼い子供たち4人ではひとたまりもなかっただろう。

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《清流は子供たちのワンダーランド》
僕たちは毎日のように山下から釣行、川下りしていると、地元の子だけでなく県境のせいか神奈川県の子供などにもたびたび遭遇する。
小石を積み上げ堰き止めてドジョウを大量に捕獲する少年達、川沿いの木の根元に生息するカブトムシなどを石油缶の1/3ほども捕まえて歩く神奈川の少年達にも遭遇した。
さらに、川の至る所に仕掛けられたガラス製のびんどう(今はペットボトルなどでつくるらしい)など、大人にはめったに出会わないが、山下からの川下りを楽しむ私たちだけでなく、それら遭遇した子供たちにとって清流はワンダーランドであったことは間違いない。


次回は、桂川と鶴川が上野原駅近くで合流しているあたりのきんぎ岩(杵岩の鉛の由;金魚岩は間違いであることが判明)について記述

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太陽にほえろ!ベスト  ....昭和の歌 [昭和時代]

太陽にほえろ!ベスト であります。

《オリジナル・サウンド・トラック》 ~英語でThe Original Soundtrack であります。


1970年代、よく目黒駅付近の権之助坂に石原プロモーションのマイクロバスがとまっておりました。西部警察などで見た刑事役の皆さんが(主役級ではないけど)窓から顔を出していました。警察署は、目黒区三田あたりの営林署だか何だか、昔の建物を借りて撮影しているとは噂で聞いていました。同じく目黒のあるお屋敷は、余りにも立派なので「政界の黒幕」や「財界の大立者」の謀議のシーン撮影用に契約を結んでいたそうです。政界や財界のいろんな悪だくみが繰り広げられていたようです。(想像ですが.....)

石原 裕次郎: 生年月日/1934年12月28日 ~ 没年月日/1987年7月17日(満52歳没)

下川 辰平:生年月日/1928年12月11日~  没年月日/ 2004年3月25日  長さん(~野崎刑事役)(満73歳没)

●石原裕次郎は52歳で亡くなったのですね。若すぎた....

●兄の慎太郎が美濃部さんに挑戦して敗れた初めての都知事選、目黒公会堂で行われた時局演説会か何かに裕次郎が応援で駆けつけたのを見に行きました。聴きに行ったのではないです。
裕次郎は照れながら話していましたけどユーモアもあり会場は熱気に包まれていました。もちろん、ものすごいオーラがありましたね。30分ぐらいの話が、「えーもう終わっちゃうの」と言うぐらいとても短く感じました。颯爽と片手をあげて会釈してカッコ良く去って行きました。
子供の頃目黒不動尊の豆まきで尊敬していた植木等を見て以来の感動でありました。



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70年代は僕たちの時代-GODIEGO(ゴダイゴ)~昭和の歌 [昭和時代]

-GODIEGO(ゴダイゴ)である。Daigo(ダイゴ)ではない。

GODIEGO(ゴダイゴ)は1976年に結成され、1970年代後半からヒット曲を連発し、1985年に解散した。

1970年代末頃だと思うが、仕事で彼らの音盤権を持つ会社を訪ねる機会があった。その会社の役員は、当時ピンクレディーの音盤権も持っていたので、言うならばウハウハ(古いか?)だったはずなのに、何やらゴダイゴが仕事をしなくなって困るというようなことを言っていた記憶がある。その後、丁度人気に陰りが出始めることになる。

《ミッキー吉野に六本木で遭遇した》
ゴダイゴ解散後の1980年代後半、私たちは六本木界隈をやたらうろうろしていた。バブル時代の足音はまだ聞こえていない。そんなある日、とあるクラブでゴダイゴの元キーボード奏者でバンドリーダーのミッキー吉野に遭遇した。そこは、ライブが売りで、六本木にたむろする外人&遊び人がそれを目当てに来るらしい。しばらく、ライブの演奏を聞いて演奏家が休憩に入った後、突然、つかつかと帽子をかぶった長髪の男が、ピアノのところに向かった。酔っ払い?その男は、興に乗ってキーボード演奏を始めた。メリハリの良いパンチの効いた素晴らしい音色だ。「あ!ミッキー吉野だ。」その店に案内した友人がささやいた。私も、以前、日比谷の野音で彼を見たことがあるので、すぐに分かった。その店で先に演奏していたミュージシャンもプロなのだろうけど、ちょっと格が違うし、残酷だな。(当り前か…)
しかし、後ろで、他の客が「今(ミッキー吉野)、何もしていないんだよな」。そう言われれば、なんとなく、大変な力もちが、力の使いどころが無く無聊をかこっている感じがする演奏でもあった。ちょうど、活動休止時代だったのだろう.....

■GODIEGO(ゴダイゴ)主なメンバー
•ミッキー吉野(キーボード・リーダー)
•タケカワユキヒデ(キーボード・リードボーカル)
•浅野孝已(ギター)
•スティーヴ・フォックス(ベース)
•トミー・スナイダー(ドラムス)

《1979年のアルバム『OUR DECADE』》

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《「70年代は僕たちの時代」のメッセージが、見える》

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《1979年のMAGIC CAPSULE(マジック・カプセル)》

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《1978年の『MAGIC MONKEY(西遊記)』》

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《1978年の『CMソング・グラフィティ・ゴダイゴ・スーパー・ヒッツ』》

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「ウーマンパワーをやっつけろ!」-森田健作~昭和の歌 [昭和時代]

「ウーマンパワーをやっつけろ!」-森田健作(現千葉県知事)のLPアルバムが、家を大掃除していたら発見された。見ては行けないものを見た感じ。

家人が恥ずかしがる消し去りたい過去...
「あなた、昔から男を見る目が無かったのよねー」と周囲からも、からかわれるそうだが、大フアンだったらしい。今は何故好きだったか全く分からない由。
それにしても、アナログレコードプレーヤーが無いので聞けないが、「ウーマンパワーをやっつけろ」という曲気になります。女性に余程手痛い目に会ったのか?そのころから、地団太踏んでいたのだろうか?なんていろいろ想像してしまうのだ。

《俺は男だ-TVサントラ盤?》

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《裏面がいかしている。あの甲高い声が聞こえてきそうだ!》

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《楽曲 「ウーマンパワーをやっつけろ」-ウーム!》

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《森田健作の青春》

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ヤングのテーマ~南沙織~昭和の歌 [昭和時代]

兄弟と御宿海岸に海水浴に行ったら南沙織の「17歳」がのべつ幕なしにかかっていました。1971年頃だったと思います。
「御宿海岸へようこそ」「御宿砂漠?へようこそ」とがなりたて何度もアナウンス、砂浜にクタビレタ感じのラクダ像が何故か飾られておりました。(後でわかったことですが、ブロンズ像だったらしい。しかも、御宿海岸は、童謡「月の砂漠」のもとになった場所だそうです。あの森繁が歌っていた曲であります。)
 でも、その時は、千葉の房総半島なのに砂漠かよ?って感じで....がなりたてる放送と繰り返し繰り返しかけられる南沙織の歌と合わさって、すごくシュールな光景でありました。(汗!)

《南沙織のファーストアルバム~17歳》

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さて、「ヤング」 最近聞かない言葉であります。 西城秀樹のヤングマンと言う歌がありましたが

「ヤングのテーマ」「純潔」「ともだち」と来ると昭和時代のオジサンの好きそうな言葉がてんこ盛りであります。
ま、兎に角「ヤング」諸君ご覧あれ

《南沙織:ヤングのテーマ》

 
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昭和の遠足 Ⅱ [昭和時代]

昭和時代、小学校高学年になると、保護者がついてくることは、あまりなかったのですが、時に世話好きなとなりのオバサン(バーちゃん)が、保護者代わりに来ていました。バーちゃんは大工の棟梁の妻でしたが、良く我々ガキどもを映画館に引率したりして、親は、親で気軽に人に我が子を預けていました。古き良き日本社会がまだ、息づいていたのでありました。

誠に、のどかな時代でありました.........

<駒が岳~昭和36年だと思います>
神奈川県箱根町元箱根

駒ケ岳-昭和36年.JPG


<ユネスコ村 ~昭和36年5月>
1951年(昭和26年)9月16日、日本が国際連合教育科学文化機関(UNESCO)に60番目に加盟したことを記念して、埼玉県所沢市に開園。1997年(平成9年)より2006年(平成18年)の閉園まで西武園ゆうえんちなどと共に西武レクリエーションに受託運営させていたなんて知らなかったな。写真は、埼玉県所沢界隈ということになりますね。

s36.5ユネスコ村-4年生1学期-1.jpg



S36.5ユネスコ村.JPG



<東京国際空港(Tokyo International Airport)~昭和37年3月>
羽田空港のことです。
1931年(昭和6年)8月25日に「羽田飛行場」として開港。
この写真は、正確には都内見学での1枚。昭和37年撮影ですから、開港31年目。

お!後ろにプロペラ機が?

羽田空港都内見学s37-3.JPG


<久留和海岸~昭和37年>
神奈川県横須賀市
JR逗子駅東口(2番乗り場)又は京浜急行新逗子駅(南口1番乗り場)から 「長井」「市民病院」「大楠芦名」「佐島マリーナ」行きのバスで約20分。「久留和海岸」バス停下車


久留和海岸S37葉山の近く.JPG



<逗子臨海学校~昭和37年 夏>
風邪か何かで海を前にして泳げなかった悲しい記憶だけ残っています。

逗子臨海S37.JPG



<御岳平~昭和38年>
東京都青梅市 JR御嶽山下車、ケーブルカー御岳山駅前
こんなところ行っていたんだな?大人になって2度ほど行きましたが.....

s38御岳平小6深見先生御岳山駅近く.JPG



皆さん どうしてますか?......................................おーい....

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