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極楽寺(kek lok si temple)にて [タイムスリップ]

ペナン島の極楽寺(kek lok si temple=ケッロクシ)は、マレーシアでも最大の仏教寺院。1890年創建。これまで、1985年および1997年と2度行っている。

《恐怖の極楽寺からペナンヒルまで~1985年10月》
◎トンチンカン夫婦の旅  ここに始まる。
当時、マレーシアでは、白タクに乗って捕まると、利用客も罰せられるから気を付けろとガイドに脅されていた。ホテル近くのタクシーの溜り場に行って、夜景のきれいなペナンヒルに向かう前に極楽寺に立ち寄って観光、そこからさぞや有名な観光地にいるであろう別のタクシーに乗って、夕方ペナンヒルに向かう算段だった。甘かった。
ホテル近くのタクシーの溜り場は、前の方には黄色いタクシーがいるのに、ダミーだった。男たちに奥に連れていかれた。白タクだ。本当に車体までが白いよれよれのセダンだ。引き返そうとすると、更に他の男たちにも囲まれた。人相の悪い壺売りのような男が運転手で、「No problem」を繰り返す。極楽寺まで「18ドーラーズ」だという。家人もいたので、ままよとばかり極楽寺まで行くこととする。ガイドブックでは、近いように思ったが40分ぐらい乗っていた。車中、家人に話しかけても顔はひきつっている。更に極楽寺近くに来ると件の壺売り顔のタクシー運転手が、交渉を始めた。「ペナンヒルにも行くのだろう。丘の下で、待っててやって、帰りはホテルに送るから60ドル(当時日本円で6000円ぐらい)でどうだ」という。既に恐怖の真っただ中の家人が、同意するはずもなく、ここで結構だと降りることとする。その時白人観光客が、「天の助け」とばかりに嬉しそうな顔で、我々がまだ乗っている壺売りタクシーに駆け寄ってきた。後でわかったことだが、壺売り運転手は、本当は親切でいいやつだったのかも知れないとさえ思った。タクシーが去った後、すぐに事情が呑み込めた。観光客など一人もいなかった。タクシーも1台もない。観光した後にはいるかもと期待したが、寺の入口に行っても人っ子一人いなかった。もちろんタクシーもいない。おまけに雨も降りだした。ガイドブックは極めていい加減な地図で、丘の向こうがペナンヒルのような絵だったので、無謀にも歩き始めた。誰にも会わない。不安が募る。しばらくして遭遇した坂の上の方からくる老婆に聞くが、英語が通じない。後ろからくる人に聞けという。確かに、後ろから35歳前後の男性がジョギングしながら下りてくる。「ペナンヒルに行くには、どういけばよいか?」「On foot?(歩いて?)」驚愕される。親切な人で自分の車に乗れという。15分弱かかった。歩いてなんて、とんでもない話だ。この方は日本の間組に勤めていたことがあるとのことであった。ラッキーだった。ペナンヒルには、ケーブルカーで上る。
ペナンヒルで、夜景タイムまで食事をすることとする。疲れきっていて、うっかり大衆食堂のような店に入ってしまった。ほかに客がいない。異常に安く、異様にまずかった。ビールを除いては.....我々が店を出ていくとき、入るのを躊躇していた白人の親子が、我々の姿を見て安心した顔になり入れ替わりに入っていった。犠牲者を作ってしまった。

ペナンヒルの夜景を見た後、ケーブルカーで降りた。また、タクシーなどいやしない。でも、極楽寺から連れて来てもらった時大きな通りがあったので、そこまで行こうと歩き出したときスルスルとまたも白タクが近づいてきた。ラササヤンホテルまで、「18ドーラーズ」、おまけに「女房と子供を途中で乗せてよいか」だと・・「No problem」と今度は私が答える。

《極楽寺再び~1997年4月》
想い出のペナンに行きたいとの家人の希望で1997年ゴールデンウイーク前に同地を再訪した。昔はラササヤンとゴールデンサンなど少ししかホテルがなかったが、ペナンはホテルも増え、飲食店もたくさんあり原宿状態で様変わりしていた。
昔、恐怖に慄いて気もそぞろだった極楽寺にもう一度行ってみようということに...宿泊しているムティアラビーチリソートホテルの前にバス停があり、街の中心のバスターミナルまで何本も出ている。(当時60円ぐらい)バスターミナルから極楽寺の麓の町で降りて(当時60円ぐらい)、そばを食ってから、そこからまた、バスが出ていた。(当時35円ぐらいだった)全てはスムーズで「No problem」の旅だった。

★今は、参道を歩くのがお勧めらしい。
ランドマークのコムタタワーに隣接するコムタバスターミナルから、AIR ITAM方面のバスに乗り、極楽寺の麓で降りて、坂道を20分程登る。203、204系統のバスでセブンイレブンが目印らしい。

《極楽寺(kek lok si temple=ケッロクシ)》

ペナン島極楽寺_0003.jpg




ポルト(Porto IPA)を旅する~2000年8月 [タイムスリップ]

ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。ポートワイン発祥の地。トリスの赤球ポートワインではない。結構度数が有って、昼間から酔った。


《ポルト空港から市内への行き方?》
ポルトへは、リスボンからTAPポルトガル航空で行くことができる。
今は地下鉄も走っているらしい。当時、行きも帰りも国内線飛行機で行ったが、サンベント駅のアズレージョを見てから市内観光に行った記憶がある。

《サンベント駅(Estacao de Sao Bento)とアズレージョ(ポルトガル装飾タイル)》

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アズレージョに見入る和弥-ポルトサンベントス駅3.JPG


アズレージョ-ポルトサンベントス駅.JPG




《ボルサ宮》

鉄道のサンベント駅から徒歩10分の場所にある
宮殿ではなく、最近まで証券取引所として使われていた建物である。現在はポルトの商工会議所が使用しているが、館内を見学できる。フランス語の案内のクールが一番早かったので、それに参加した。わかるわけないけど、ガイドさんが、私達夫婦に時折英語を交えて説明してくれた時、みなさん笑っていた。

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《ドロウ川クルーズ》
ドロウ川を挟んだ旧市街のカイス・ダ・リベイラ地区と対岸のビラ・ ノバ・デ・ガイアを眺めながらクルーズは行く。
世界遺産の歴史地区、カラフルな家並み、ドロウ川に 浮かぶラベーロ、そしてワインセラーなどなど見どころは多い。

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《ドンルイスⅠ世橋(ポルトガル語:Ponte Dom Luis I)》

ドロウ川2-ドンルイスⅠ世橋を望む.JPG


【関連記事】

◆ユーラシア大陸最西端の「ロカ岬」に行った。~「ここに地終わり海始まる」
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-07-26

◆リスボン (Lisbon)とテージョ川~2000年8月
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-10-05


◆オビドス(Obidos)に行った。~2000年8月(ポルトガルの旅)
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-10-09-1

オビドス(Obidos)に行った。~2000年8月(ポルトガルの旅) [タイムスリップ]

<Castelo de Obidos カステロ・デ・オビドス>
「谷間の真珠」と呼ばれるポルトガルの城塞都市Obidos オビドス。そのCastelo de Obidos オビドス城に行きました。
今は、お城を改装してホテル、すなわちポザーダ(Pousada do Castelo)になっています。
誠に美しい街です。

《城壁から眺める街並》
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《サンタマリア教会》

サンタマリア教会GG.JPG



《城砦》

城塞2G.JPG


《村》

オビドス村風景7.JPG


オビドス村風景8.JPG


《行き方》

リスボンの地下鉄カンポ・グランデ駅(Campo Grande)のバス乗り場からテージョ社の バスで約1時間
※バスで行った以外は、大昔の記憶はないので確認してくださいね。テージョ社のバスは間違いなしです。

<テージョ社サイト-2013年10月時点>
http://www.rodotejo.pt/

①TRAVEL TO ÓBIDOS / VIAJE ATé ÓBIDOS の頁を開く( ÓBIDOSの写真→VER MAISを押下)
②Please consult the time table: →(押下)Rápida Verde. 時刻表が開く

Price tickets: Buy the tickets on board at the bus.
(Adult) 7,60 €
(Children 4-12 years) 3,80€

【関連サイト】
◆ユーラシア大陸最西端の「ロカ岬」に行った。~「ここに地終わり海始まる」
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-07-26

◆リスボン (Lisbon)とテージョ川~2000年8月
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-10-05

◆ポルト(Porto IPA)を旅する~2000年8月
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-10-17

リスボン (Lisbon)とテージョ川~2000年8月 [タイムスリップ]

リスボン (Lisbon)とテージョ川~2000年8月

2000年8月にポルトガルを旅した。
リスボン市内は、ほとんど路面電車を利用した。テージョ川沿いをブラブラ散策した。

《発見のモニュメント》
発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)は、ポルトガル・リスボン市西部ベレン地区のテージョ川岸にある大 航海時代を記念した記念碑。

発見のモニュメント3G.JPG


《ベレンの塔》
ベレンの塔は、16世紀にマヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞。

ベレンの塔1.JPG



《ベレンの塔から》

ベレンの塔-中からテージョを写す3G.JPG


《ジェロニモス修道院》
ジェロニモス修道院は、世界遺産のひとつである。マヌエル様式の最高傑作、大航海時代建築された。

ジェロニモス修道院2.JPG


リスボン-ジェロニモス修道院_0002.jpg



《サンジョルジェ城からアルファマ地区を眺める》

サンジョルジェ城からアルファマ地区7G.JPG



《テージョ川クルーズ》
コメルシオ広場の南側の船着場から、出発。

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※レストラン & カフェ、Martinho da Arcada
コメルシオ広場の一角にある。-住所 Praca do Comercio 3, Lisbon, Portugal
クルーズが終わってここで食事した。テージョ川クルーズの船着き場に向かう前に、家人が腹痛を催し、カフェレストランのトイレを借用した恩義もあり、恩返しのつもりで何も知らずに入った。
もっともトイレに行った時、このカフェの奥にあるレストラン何か歴史が有りそうで良さそうと家人は目をつけていたようだ。
店に入って、ガイドブックをくくるとあった。ここは、リスボンで最も老舗のカフェ・レストラン。(1782年創業)
店内にはポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの写真などが掲げられ腰掛け、執筆していたというテーブルが残っていた。
日本円で850円程度の魚料理をウエイターが、格調高く骨と身を丁寧に仕分けてくれたのを覚えている。

※リスボンのミステリー
リスボンのホテル5★の米系ホテルを、日本のカード会社の割引価格で予約してもらった。到着した日の夜、眠りについていると、夜中の12時過ぎに電話でたたき起こされた。フロントの女は、予約してくれた日本のカード会社のカードでは、駄目だとヒステリックにわめいている。幸い、米国系のカードも持ってきていたので、ことなきを得たけど、5★が聞いてあきれる。
一体何だったのか、帰国して日本のカード会社に問いただしても、ただひたすら、お詫びするだけで何の説明もなかった。両者でもめていたのかもしれないけど、日本の企業もいい加減なこと平気でやっていた時代だった。


【関連サイト】
◆ユーラシア大陸最西端の「ロカ岬」に行った。~「ここに地終わり海始まる」
http://sodaxpiee.blog.so-net.ne.jp/2012-07-26

◆オビドス(Obidos)に行った。~2000年8月(ポルトガルの旅)
http://sodaxpiee.blog.so-net.ne.jp/2013-10-09-1

◆ポルト(Porto IPA)を旅する~2000年8月
http://sodaxpiee.blog.so-net.ne.jp/2013-10-17


マドリードの日々~1993年8月 [タイムスリップ]

1993年8月末から9月初旬スペイン旅行をした拠点は、そういえばマドリードだった。
※2020年のオリンピック候補地のライバルの「マドリード」に恐らく決まる?思っていたらオオハズレ!(9/7の22時時点)
結局イスタンブールと日本が残った。(9/8 4時半)
「ロゲ会長の7年後を考えるべき」発言は、汚染水問題ではなかったようだ。トルコの騒動の事だったらしいと理解。(従って、不適切発言の猪瀬知事とアラブ全体、そしてロゲ会長との戦いになるとみた。)
と言っていたら、東京に決まった。?しかし、イスタンブール残念だったな...(9/8 5:20)
兎に角、東京は意外?海の無い群馬県まで水産物輸入禁止にした某国政府の皆さんなどの”励まし”もあって、冷めた目で見ていた、まとまらない日本国民も一丸となったのかも知れない。はて、株が上がるか?

《投票結果 2013年9月7日(日本時間 8日)》

東京(日本) ・・・・・・・~42票〇(第1回)  - 休- (第2回) 60票◎(第3回最終)
イスタンブール(トルコ) ~ 26票(第1回)   49票〇(第2回) 36票×(第3回最終)
マドリード(スペイン)   ~26票(第1回)    45票× (第2回)   

それは、さておき
マドリードへの出発日の1993年8月27日は、関東地方を大型台風が襲って東京も水浸しになり、成田空港を午前中に飛び立つはずのスペイン イベリア航空が、なかなか飛ばなかった。天皇陛下がスペイン王室からいただいた勲章をスペイン訪問に持参することになり、それを急きょ預かった機長が無くしたことで話題になったイベリア航空だ。
日本航空などの後回しになりながらも、ようやく23時半頃、イベリア航空は成田を飛び立った。何と12時間内外の遅れだった。ストックホルム行きのように機中一泊にならないで良かった。(天候不順などがあると、その飛行機会社の力関係がわかる)


19時間ぐらいだったか?途中、モスクワ空港(ドモジェドボ国際空港 ?)でトランジット、軍人が機内に点検に来た。怖い。トランジットしてもドルしか使えずルーブルは不要だしで、飲み物すら買えず、穢いトイレに入っただけだった。
マドリードに到着したのは、現地は朝だったように記憶している。到着後、ホテルと送迎だけ頼んでいた旅行会社からお詫びだとのことでマドリード見学ツアー(英語)のチケットをいただいた。でも、スタート(集合)が朝9時?全く寝られないよー。ま、いっかーとバスで寝るぐらいのつもりで見学した。

王宮や市内の名所等を見学した。
ただ、後で自分たちで市内を散策したが、マドリードは、地下鉄も発達しているし、飛行機は電車代わり、タクシーもバルセロナ五輪の後で、雲助もいないし、随分利用しやすかったように記憶している。
きっと、財政難と言っても、今は、もっとインフラは充実しているだろう。

《マドリード王宮 (Palacio Real de Madrid)》
オリエンテ宮(Palacio de Oriente)とも呼ばれる、スペイン王の王宮。睡眠不足で朦朧とした中で撮影。

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《国立プラド美術館(Museo del Prado)》
ツアーだったと勘違いしていたが、地下鉄で行ったことを思い出した。プラドは、やはりすごい。とても印象的な美術館だ。写真撮影禁止だったのか、珠玉の作品の写真は残っていない。
1785年にカルロス3世が自然科学博物館を作るためにフアン・デ・ビジャヌエバに設計させたそうな。
ベラスケス :『女官たち(ラス・メニーナス)』(1656)ほか多数
ゴヤ : 『裸のマハ』(1797-1800)ほか多数、
更にボス 、デューラー、エル・グレコ -など、兎に角どこかで見た絵ばかりのオンパレードである。

【関連記事】
◆マドリードのラス・ベンタス闘牛場 に闘牛を見に行った 
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-06-17

◆アルハンブラで終日遊ぶ~1993年9月飛行機でスペイングラナダに行った 
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-04-05

◆スペインの大平原を電車に乗ってセゴビア(Segovia)に行った。-1993年8月 
http://sodaxpiee.blog.so-net.ne.jp/archive/20130402

ギリシャの旅人<アテネから長距離バスに乗って>~1992年9月 [タイムスリップ]

1992年9月ギリシャを旅した。兎に角、格安ツアーで、飛行機はタイ航空、何故かバンコクで9時間トランジット。
バンコクは、何度か来ているので9時間の間散策しようと楽しみにしていたが、添乗員が兎に角、単独行動は猛烈に拒否。
やむなく、添乗員任せになったが、昼飯を理由に連れ出され、これからギリシャに行こうと言うのに、何故かバンコク市内の宝石店やお土産店に案内される。誰も何も買わない。(当たり前か..)むなしく時間が過ぎる........と言うことで、へとへとでアテネ(Athens )到着。
この時代の事なので、ツアーのバスは必ずお土産店に連れて行かれた。最初は付き会っていた客も、すぐに勝手に行動をとる様になっていた。(以来、添乗員のいるツアーには2010年の南仏旅行まで久しく行かなかった。)

そんなわけで、主な観光地には、バスターミナルまでタクシーで行って、長距離バスを使った。因みに、ギリシャはアラブの支配下にあった時代もあり、ここら辺のバスは何やらアラブ系の音楽がずっとかかっていた。


★ギリシャのバスターミナルは、今は大きく分けて3つ(バスターミナル・バスターミナルA、バスターミナルB)あるそうだ。

《アクアポリス-パルテノン神殿》
初日なので、ツアーのバスで行った。

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《スーニオン岬》
<バス>ラゴニシ、スニオン方面行き(アテネから2時間)
Patission通りとAlexandras通りの角
Tel:2108213203

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《デルフィ神殿》
デルフィは、アテネ(Athens )の北、バスで3時間ほどの場所にある遺跡である。(今は、アテネ・バスターミナルB からデルフィまで長距離バスが運行されている)
「デルフィ」は、英語表記(Delphi)だったそうで、本来デルポイ(古典ギリシア語: Δελφοι / Delphoi)遺跡と言うとは今になって知った。
デルポイの遺跡は、アポローン神殿を中心とする神域と、都市遺構からなる。
遺跡はさることながら、何といっても絶景レストランでの食事が最高だった。


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2-12デルフィー遺跡パノラマギリシャ-4.JPG


<交通>
バスターミナルB
デルフィ、メテオラ方面行き
住所:260 Liossion Str.
Tel:2108317153
[行き方] 国立庭園入り口のAmalias通りより024のブルーバスにて。
チケット購入方法~各ターミナルの窓口かバスの中
★ギリシャ観光協会などで確認してください。

《関連記事》

◆ギリシャの旅人<素人絵画の世界>
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2021-02-08

迷宮のヴェネツィアで船を間違えて、国際映画祭で有名なリド島に行った~1994年8月 [タイムスリップ]

1994年8月末日ムラーノ島(vetro di Murano)のガラス工房に行きたいと同伴人が言うもので、サンマルコ広場近くの船乗り場から水上バスに乗った。しばらく、呑気に美しいベニスの眺めを満喫していたトンチンカン夫婦であった。

<サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会 (Santa Maria della Salute)>

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<ドゥカーレ宮殿 (Palazzo Ducale)>

940828-ベネチアリド島周遊船_0003ドゥカーレ宮殿.jpg


《定期船の迷宮》
なんか違う島だな? リド島(Lido di Venezia)に到着しちゃった アリャマ?......
10分ぐらいで着くはずのムラーノ島になかなか着かない。20分ぐらい経過して着いたと思ったら、何か違う...?
船着き場で聞いたら、どうやらリド島(Lido di Venezia)に到着したらしい。寂しそうな島だった。(映画祭の期間以外は観光客は少ないとのこと)気を取り直して、帰ろうと判断して、一旦下船し、滞在時間数分?そのまま本島に戻る定期船に乗って帰った。どうもリド島周回船だったようだ。

※リド島(Lido di Venezia)は、ヴェネツィア本島の東南にある長さ12kmの細長い島で、ヴェネツィア国際映画祭が開催されることでも有名。北野武は、HANA-BIで1997年第54回ヴェネツィア国際映画祭で、金獅子賞を受賞した。また、『ヴェニスに死す( Der Tod in Venedig)』は、ドイツの作家トーマス・マンの小説だが、リド島(Lido di Venezia)を舞台にした同名のビスコンティの映画でも有名だ。(もちろん後で、知ったのだが、映画を見て「あの時、ここ、行っちゃったんだ...」ととても感慨深かった)因みに映画「ヴェニスに死す」の舞台になったホテルは、ホテル デ バン ベニス リド リゾート(Hotel Des Bains, Venice Lido Resort)だそうな。

<リド島(Lido di Venezia)? 今となっては、わからん?>
後で写真をよく見ると、やはりリド島だったらしい。写真の向こうにホテル リヴィエラ(Hotel Riviera)★★★が見える。

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《帰路の迷宮》
帰りは、予約したINTER CITY(イタリアの新幹線?)に間にあう様に駅まで向かったが、案の定”迷宮のヴェネツィア”で迷子になった。更に、少し前を行く白人のカップルを、帰り路が分かっていると思いこみ後を着いて行ったら、彼らも路に迷っていたことが判明、4人で通りがかりの少年を捕まえて、案内してもらいようやく迷宮を抜け出した。
もちろん、予約したINTER CITYは、乗り遅れてしまい、ワールドワイドなトンチンカン夫婦は、混雑した電車を”はうはうの体”で宿のあるミラノまで帰ったのであった。


【関係ない記事】

◆なんちゃってヴェネチア~箱根ガラスの森美術館で~2014そんでもって箱根Ⅲ 
http://sodaxpiee.blog.so-net.ne.jp/2014-05-11-2


富士山に登頂した。~1998年8月1日 [タイムスリップ]

1998年8月1日富士山に登頂した。

トレッキングシューズの周囲をガムテープで巻いて、岩場で靴が壊れぬよう対策を施して登った。

7月31日5合目を出発した時間が遅かったのか、エレベーターが無いのに7合目で、もう歩けないと降りたがる※御仁がいたせいか、80歳?の老婆(三浦雄一郎では無い)にも追い越され、8合目で御来光を迎えてしまった。
頂上には8月1日朝8時ごろ到達というテイタラク。
所謂、今、批判されている弾丸登山であった。今後、きっと不可になるだろう。世界遺産だし....

※件の御仁は、高山病だったのではとのご指摘もあり、今、思えばゾッとする。何しろ、富士山だけでも冬山も含め14~15回登頂している登山家がついていたので、安心しきっていた。しかし、31日の晩は、宴会を繰り広げたあとの、登頂で、誠に山をなめてはいけないということだったらしい。(最近は、サンダル履きで来るバカがいるらしいけど、周囲にも大迷惑になることが下山時にきっとわかる。)
さて、何となく軍隊調を帯びてきた登山家の指示に従って、我々一行は、無事下山した。戦争中の軍隊の行軍ってこんな調子で、脱落者を防いでいたのだなと実感できた次第である。(偏平足の人は、行軍つらかったらしい。休んだら死ぬし。)

<8合目で御来光>

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<富士山頂上の火口>

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<頂上の大社で>

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タグ:富士山

富春山居(フーチュン リゾート)杭州に行った。・・・2006年8月 [タイムスリップ]

富春山居(フーチュン リゾート)杭州(杭州富春山居度假村)(Fuchun Resort, Hangzhou)

最近、世界的に政治家の質が落ちているのか、もめ続けている中国は、全く食指が動かない遠い国になったなという感じである。

2006年8月 ANAで杭州蕭山国際空港に飛んだ。車で45分のところに富春山居(フーチュン リゾート)はあった。時はまさに北京オリンピック(2008年)の2年前、中国中が狂ったように工事していたので、道中の道路は、ガタゴトガタゴト・・・
不安もガタゴト.......しかし、ホテルに到着すると、その落ち着いた佇まいに不安は一瞬にして消える。

レイクサイドヴィラに泊まった。
ホテル内は、各部屋にあるカートにて移動する。従って、ペーパードライバーの自分は、方向変換やバックでスタッフの助けを頻繁に借りた。(汗!)

現地ガイドさんには、付近の中国の日光江戸村のような、原宿のような?河坊街、定番の西湖等に案内されたが、印象に残っていない。遠いところは、気が進まなそうだった。
それと、こちらも付近のガタゴト道があまり快適とは言えず、遠出はしなかった。

《原宿か日光江戸村の雰囲気...河坊街》

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《西湖》
古都を象徴する湖。地元観光客や外国人観光客があふれ疲れました。結構がっかりします。

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《富春山居(フーチュン リゾート)》
靄の中にある。山居正面は、ゴルフ場。一人のゴルファーにキャディーが3人付いているのをみた。ティーアップもキャディにさせていた。日本人ゴルファー?
当地としては、ボールの値段が高いのでフェアウエーの周りの段々畑などに打ちこんだボールは、捜しに行かないのが、マナー。「生活の糧」となっているらしい?

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《山水画の世界》

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《ヴィラから》

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《朝靄の中》


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《丘の上から》

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《鳥鎮(うちん)》
少しは、観光しようと、ガイドが気がすすまない風だった鳥鎮に行った。
中国浙江省北部の 嘉興市桐郷市烏鎮鎮にある観光地。大運河に面していて、一部復元されてもいるが江南の街並みが残る。
ミッションインポシブルのロケ地(上海近く)とは違うけど、塀で囲ってあって、入場料を取る。
しかし、住民が住んでおり、今時中国人の爺さんの立ち小便を見た。女性ガイドは、目を伏せ恥ずかしそうだった。
また、歴史的遺産は、紅衛兵運動の時に破壊されたようで、ガイドが気がすすまなかった意味を十分理解。オリンピック前だし...


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《富春山居のパンフ》
(フーチュン リゾート)杭州(杭州富春山居度假村)(Fuchun Resort, Hangzhou)

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アルハンブラで終日遊ぶ~1993年9月飛行機でスペイングラナダ゙に行った [タイムスリップ]

昔、ヨーロッパの一部はイスラムに支配されていた。
1492年にはついにイスラム最後の砦であるグラナダが陥落し、イベリア半島は再びキリスト教勢力のものとなった。
アルハンブラ宮殿はそのグラナダを見下ろす丘の上に築かれた城塞・宮殿・離宮からなる。
アルハンブラとは「赤い城」という意味。ギターのうまい人の定番、名曲「アルハンブラの想い出」のアルハンブラだ。

9月1日グラナダには、ホテルのあるマドリードから飛行機で行った。市内からバスで行ったような記憶が有る。
いまは、オンシーズンは1か月前ぐらいから予約が必要だそうだけど、当時はそんなこと何も考えていなかった。
フランス人の農協のような人たちが、旗振りならぬプラカードのもとぞろぞろ見学していた。日本人の団体旅行をあざ笑うフランス人にも旗振り旅行があるんだなんて、妙に感心した。


《アルハンブラ宮殿アラヤネスの中庭》

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《ライオンの中庭》

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《ヘネラリフェ庭園》

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《グラナダ- アルバイシンの丘からアルハンブラ宮殿を眺める》
当時、治安も余り良くないと言うので、タクシーでアルバイシンの丘に登った。
カスタネットをもった、フラメンコ婆さんにつきまとわれたが......

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★アルバイシンの丘からは、徒歩で市内に向かった。治安が悪いとガイドブックには書いてあったが、暑いのか人通りが少なく、もちろん何事もなかった。確かにバルセロナオリンピックが終わった後だったので、スペインは、その反動で不景気が襲っていたように記憶している。治安も確かに悪くなっていたようだ。
さて、グラナダの市内でお茶したりブラブラして、夕刻同じく飛行機でマドリードまで戻った。


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