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父の中国留学~戦後70年 [よしなしごと]

2015年8月15日、日本は戦後70年を迎えた。
「戦争で本当に苦労した人は、悲惨な戦争のことをあまり語りたがらない」という。

生前父は「中国に2度“留学”した」と私たち子供によく冗談を言っていた。父が何歳の頃かは失念したが、かなり歳をとってから2度目の出征となったらしい。戦争で負けが込むと兵隊に行くのに年齢は関係ない。父は、この2度目の出征で日本の厳しい戦況は理解していた。戦争に行ったことを“留学”と冗談で言う父はさほど戦地で苦労しなかったのかというと、そうでもなかったようである。すべてユーモアに包む父の性格から来ていると今では思っている。

◆従軍看護婦
最近、戦時中戦地に赴いた従軍看護婦が話題になっているが、彼女たちの過酷な話として、戦争の後半は死体を片付ける毎日だったと言う。その話で、ふと父が「従軍看護婦に命を救われた」話を思い出した。
チフスか何かに罹って、生死の境を彷徨っていた父の病状も重くなり、ある日、いよいよ、今晩にはもたないだろうと軍医などにみられていた。ところが、奇蹟が起こって、その翌朝には病状は急回復したのだ。実は、その日の夜勤当番の看護婦が、自分の当番の夜中に「死体を片付ける」のが嫌で、嫌でしょうがなかった。どうせ死ぬにしても自分の当直日にならぬよう、兎に角一晩持てばいいやと、こっそり当時貴重なモルヒネを父に何本か投与していたのだが、どういうわけかそのモルヒネが効いたのだ。
後日、その秘密を看護婦自身から聞いた父は当初愕然としたが、よくよく考えてみれば、その死体を片付けたくなかった看護婦が命の恩人だと、改めて思ったそうである。

◆銃撃をしくじった安堵
無線兵の父は、あまり敵と撃ちあうことはなかったといっていた。それでも、何度か交戦して撃ちあいになったことがあり、一度敵兵を銃撃して敵が倒れたと思った瞬間があった。しかし、敵は突然立ち上がって脱兎の如く逃げ去ったことがあり、その時は真に残念で悔しく思ったそうだ。しかし、戦後平和になって、戦時中一度たりとも人を殺めることなかったことは、本当によかったとつくづく思うようになったと語っていた。
:2002年9月1日に父は亡くなった。享年 八十七。

父は戦争を多くは語らなかったが、それでもユーモアのオブラートで包める話はしてくれた。一方、ハルマヘラ沖で米軍に船を沈められ、恐怖の海をさまよった伯父は戦後、戦争のことをあまり語らなかった。その伯父のことを「戦争で本当に苦労した人は、悲惨な戦争のことをあまり語りたがらない」と母が言っていた。語ることもできない悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない。それこそ、知恵と工夫、全能を費やして戦争は阻止しなくてはならない。
戦後70年、この国の為政者は未だに国民に詫びていない。


  《戦時中の中国蘇州から母への絵はがき》
☆蘇州中支派遣第8019部隊….表には、詩を作ったことが書いてあった。戦時下のラブレター。亡くなった父の母への想いの詰まった葉書や手紙のスキャナーを母に頼まれたがあまりの多さと、自分の多忙もあって断念。この1枚しか残っていない。

父のはがき-蘇州中支派遣第8019部隊-裏.JPG


《母から亡父へのラブレター-平成時代》
2010年1月2日 その母も亡くなった。享年八十九。
俳句は父の作、絵は母が描いた。

030618俳句0001.JPG



【レクイエムrequiem】
◆奇妙な夢を見た
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2011-03-02
◆父の買ってくれたブリキのロボット 
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-12-08
◆父母の旅路(平成2年5月のフォトファイル)
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2016-10-29
◆希望~父母の新婚時代
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2018-07-06