SSブログ

父の買ってくれたブリキのロボット [よしなしごと]

まだ、7歳か8歳のとき、クリスマスのプレゼントに近所の弁護士のボンボンが持っているのと同じリモコンのロボットを所望した。
帰宅した父が買ってきてくれたお土産の箱を開けると、中に鉄人28号とは似ても似つかないぜんまい仕掛けのブリキのロボットが入っていた。
泣いた。「リモコンじゃない」と泣きじゃくる私に、父は怒り、そのブリキのロボットを取り上げ、庭に投げつけた。
その時の父の顔は、今となっては微細に覚えていないが、なんだか、ひどく悲しい顔をしていたように記憶している。母がどう取り繕ってくれたかは、不明だが、のちにそのブリキのロボットに相撲させて強かった記憶も残っており、おもちゃ箱の中には、中学生になるころまで入っていた。
今、おもちゃコレクターの間では、世界的にブリキのおもちゃが大層人気らしい。

大正4年4月4日生まれ(母親が40歳の時で、今でいう高齢出産)の父は、旧制府立一中卒業間際に父親代わりとなってくれていた養子の兄が急逝した。その兄とは血のつながりはないが、大年という雅号で文部大臣賞を受賞した篆刻家で、当時は相応に名も知られていたらしい。一中の授業料が払えなくなり、学校に行こうとしない父を見て、作品の篆刻を売っては、学費を出してくれたようだ。その兄の急逝もあり、一高、帝大に当然進むつもりでいた父は、中学卒業と同時に就職した。こうして、まだ健在だった自分の母親と兄の家族も、背負うことになった。誰も助けてくれなかった。皆が余裕のない時代だったのだろう。
戦後は、食えないので、勤めていた会社(今は日本有数の旅行会社)から、戦友の経営する履物販売会社に誘われ転じたが、日本人が和服を着なくなるのと同時に徐々に下駄、草履の類は衰退し、苦労は続いた。
酒を飲むと旧制第一高等学校の代表的な寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」を口ずさむ父を理解するようになったのは、自分がずいぶん大人になったころだった。今、あのブリキのロボットを庭に投げ捨てた時の父の顔を「悲しそうな顔」だったと確信しているのも、自分が随分年をとったからかも知れない。
2002年9月1日に父は亡くなった。享年 八十七。

《昭和36年4月 父と私》

S36.4父と-2.jpg


【レクイエムrequiem】
◆奇妙な夢を見た
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2011-03-02
◆父の買ってくれたブリキのロボット 
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2013-12-08
◆父の中国留学~戦後70年
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2015-08-15
◆父母の旅路(平成2年5月のフォトファイル)
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2016-10-29
◆希望~父母の新婚時代
https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2018-07-06