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岩瀬釜吉とよう [よしなしごと]

《昭和26年10月1日 お宮参りの私を抱く祖母 岩瀬よう》

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岩瀬ようは、※岩瀬釜吉の妻である。つまり、私の母方の祖母である。釜吉同様全く無名の人である。明治26年頃生まれ、1985年(昭和60年)92歳で没した。平凡な庶民だったが、誠に数奇な運命をたどった明治の女でもある。
ようは、180名ぐらいの大工を擁する、今でいえば中堅工務店の棟梁だった須恵庄蔵の四女として生まれた。生まれは神田で、渋谷、浅草三好町(現蔵前)、深川と移り住んだようだが、詳しいことは知らない。

渋谷時代の彼女は日本の職業婦人のさきがけ電話交換手をしたり、恋愛を頻繁にしていた年頃で、ひと際目立つ美しいお嬢さんだったようだ。
その頃は、省線(後の国鉄、JR)の渋谷駅のまん前に住んでいた。たまたま、自分が仕事で知った渋谷駅近くの貸ビルオーナーが、明治時代に竹屋を営んでいたと話していたので祖母に竹屋の名前を言うと、「ああ、竹屋の××ちゃんのところか」 と懐かしそうにしていたのを今でも覚えている。   
しかし、彼女は、「ある事件」をきっかけに大好きな渋谷を去らざるを得ないことになる。
ある日、彼女のことを一方的に好きになった大学生に葉山の一色海岸での心中を持ちかけられる。唐突な申し出にその気はなかったのに、何ゆえか、一緒に入水。途端、自分が何をやっているのかわからず、兎に角「生きよう」と思ったようである。死にたかった男は死に、生きたかった祖母は助けられ、当時の新聞に大きく載った。時代背景からして「心中者」で、しかも、自分だけ生き残った「不実な女」として、猛烈な指弾を浴びたことは想像できる。気が進まないのに「はい」と言ってしまう愚かしいほどの「従順さ」を母が「でも、昔の女(ひと)は、そうよねえ」とかばっていたのが印象的だった。

 一家は、追われるように三好町に引っ越すことになる。須恵庄蔵の仕事は充実期を迎えており、祖母の話では、家は「三好町の御殿」と言われていたとのことで、一階部分で建築金物の販売も併営、心中者の祖母が気晴らしに毎日店番をしていたようだ。
 深川木場の検非違使岩瀬釜吉は、そんなようを見て一目ぼれ、必要のない建築金物を毎日買いに行き、家中いっぱいになって往生したとのことである。夫婦になろうとの釜吉の申し出に、ようは「心中者」であることなどを理由にいったん断ったが、釜吉はひるまず「そんなことは、かまわねえから、いっしょになろうよ」と遂にくどき落とし、夫婦になった。
 
そのあと釜吉とようは一男二女を儲ける。末っ子の私の母によると、釜吉は「結婚する前はとても優しかったけど、結婚したら、それは、それは口やかましい人で、おばあさんもびっくり、大変な思いをしたことだろう」と笑っていたのを覚えている。

因みに岩瀬ようの父(曾祖父)須恵庄蔵は、明治初年頃生まれ昭和10年代には没していたとみられるが、74歳まで生きた。祖先は現在の稲城で大名の庇護をうけた角力だったとのことだ。
三好町当時は清水組(後の清水建設)などからスカウトが来るほど引く手数多の腕の良い中堅大工店であった。しかし、義理堅い人で若いころから世話になった宇佐美組(後に衰退)の傘下で居続けたため、一代で終わっている。なお、江戸三座とうたわれた芝居小屋市村座(二長町:今の台東区台東1丁目の凸版印刷本社に碑が残る)の営繕工事や××返しなどの仕掛け、旧日本赤十字本館などを手掛けていた。特に、舞台の仕掛けについては定評があった。死後、戸板に墨書きした設計図を××円で譲ってほしいという人達が、長男を訪ねてきた。酒飲みの長男は、それに同意したため、戸板(いまでいえば特許)を全部もっていかれ、永遠に須恵庄蔵の名は、消えて行くことになる。明治村に旧日本赤十字病院棟が残っているが、庄蔵の仕事が残っているかどうかは、今となってはわからない。また、市村座は1923年(大正12年)9月1日11時58分に関東大震災で被災、消失、その後バラックで再建されたが1932年(昭和7年)、楽屋からの失火で焼失した後は再建されることもなく、江戸三座以来の伝統を持つ市村座は跡を絶っているそうである。

<関連年表>

・1923年(大正12年)9月1日~岩瀬一家関東大震災で被災し、霊岸島(現在の新川界隈)に転居
・1931年(昭和6年)~深川区牡丹町(深川平富町1-2丁目、深川佃町、深川牡丹町)となる。岩瀬釜吉とようは夫婦になって、この深川牡丹町で戦前まで暮らしていたようである。
・1932年(昭和7年)~江戸三座 市村座消失 

《母の従妹馬場志づの話~昭和初期と思われる》
牡丹町の岩瀬の家に遊びに行くと、子供は遊んで汚れていることがあるので、家に入る前に釜吉叔父さんが、銭湯の代金を出してくれて、「湯に行ってくる」慣わしになっていました。家中、家具調度は真ちゅうだらけで、兎に角ピカピカに綺麗だったのを記憶しています。


【関連】
<※岩瀬釜吉と富岡八幡宮>

https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-03-08-1


《「市村座」…….“夢の時代”のコラボレーション》 

https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-08-03