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岩瀬釜吉と富岡八幡宮 [よしなしごと]

岩瀬釜吉は、無名の人である。しかし、私の母方の祖父である。明治の生まれ。昭和30年代半ばごろに亡くなっているが、子供の頃、この爺さんが来ると、孫である私たち兄弟に緊張が走った。若いころは、深川の木場で、木材の値をきめたりする、今でいえば公認会計士のような「検非違使」という仕事をやっていたらしい。もっとも、後年は、木材協同組合の理事など経て、リタイア。

 そんな頃だったと思うが、松尾芭蕉のような着物姿で来たり、時折、パリっとしたおしゃれな背広姿で当時目黒にあった我が家を訪れて来たものである。しかし、我々ガキどもは、正座させられて、ただでさえ足がしびれているところに、歯切れのいい小言に張りつめた空気、緊張が走るのが常だった。ゆっくり食事を食べれば、「あんまりゆっくり食べるんじゃネエ。口の中で糞になるぞ!」と、小言が降ってくる。
 ところが、この爺さん粋(いき)で鯔背(いなせ)と言われてもいた。祖父が来る日は、近所のご婦人方(おばさん)は、そわそわして、我が家に「煮物」だの何だのと、やけに持ってきてくれる人が多かったことを記憶している。

<岩瀬釜吉と孫(私たち)の写真>

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<富岡八幡宮の中にある神馬像> 昭和拾一年八月建立
祖父 岩瀬釜吉、弟の岩瀬金之助などが、所属した氏子(祭礼各町総代聯合睦会)が、昭和11年8月震災で焼失した本社の再建を記念して建立した神馬像。


<神馬像~祖父 岩瀬釜吉の名前は、こちらに>

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<寄贈者 岩瀬釜吉 ※霊岸島~神馬の像の右側横に彫ってあった。

※霊岸島~釜吉一家は、深川牡丹町で震災で被災して、一時期住まいしていたようだ。今の中央区新川八丁堀の近くである。霊岸島という交差点が今もある。霊岸島はもとより、霊岸島塩町、霊岸島四日市町などとして継がれ、関東大震災後は区画整理で一帯が旧霊岸島の町名となったらしい。江戸からの歴史ある旧町名がなくなったのが昭和46年(1971)、住居表示制度改正のときだそうである。残念。>


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<神馬の碑・・・弟岩瀬金之助の名前はこちらに>

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<寄贈者 弟 岩瀬金之助>
粋筋でモテタらしい。

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《富岡八幡宮》
江東区富岡 1-20-3
江戸最大の八幡宮、応神天皇、天照大神 、天児屋根命、大雀命、武内宿称命、日本武尊、龍大神を祭っている。寛永元年に僧侶長盛が京都から持ってきた八幡神像を祀ったのが始まり。大震災と戦災の2度に渡って焼失、現在のものは昭和32年落成したそうな。
例祭は、「深川八幡祭」、「深川祭」とも称され、赤坂日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられている。

<横綱力士像碑 >
境内の一番奥には,江戸時代最後の横綱で12代陣幕久五郎が発起人となって明治33年に寄進された横綱力士碑がある。
中央の碑の両側には東西横綱を描いた石柱が立ち、碑の背面には歴代横綱の銘が記されている。

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<双葉山 六十九連勝、千代の富士53連勝の文字が…白鳳は、無い>


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<伊能忠敬の像>

近代日本地図の始祖である伊能忠敬は、事業を成し遂げた後50歳で江戸に出てきて、富岡八幡宮の近所の黒江町(現在の門前仲町1丁目)に住まいしていたらしい。
蝦夷地に行く前にも富岡八幡宮にお参りしてから出かけたらしい。
ということで平成13年10月20日に建てられたとのこと。

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<日本一の大神輿>
佐川急便の会長寄付のダイヤ、ルビー入り大神輿もある。御本社神輿の復活とかで、兎に角大きい。



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《関連:岩瀬釜吉とよう》

https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-04-14

《「市村座」…….“夢の時代”のコラボレーション》 

https://sodaxpiee.blog.ss-blog.jp/2012-08-03