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上野原スタンド・バイ・ミー(Stand by Me)Ⅱ~きんぎ岩アドベンチャー [昭和時代]

学生時代、アーネスト・ヘミングウエイの小説で、ニック少年が鱒釣りしながら川下りする短編小説を読むと小学生時代の夏休み山梨県上野原町で過ごした日々を思い出した。
山梨県北都留郡の旧上野原町(平成17年2月南都留郡秋山村と合併、上野原市となり消滅)には、自分の小学生時代(昭和30年代)親戚の家があって、子供は3男3女(実は親戚に1人養子に出していたので7人)だった。兄と同学年の一歳上の従兄(三男)がインストラクターだった。毎日が楽しい冒険の日々だった。
大概は、親戚の家で作ってくれたおにぎりなどをもって、近くの地元で山下(通称)と言われていた清流を釣行し、下流で土手を登り、当時全く舗装されていない土煙あがる甲州街道に出て、歩いて帰ってくる。道すがら湧き水もあって、暑い夏には清涼でおいしかったのを覚えている。
そんな山下アドベンチャーに負けず劣らず楽しく遊んだのは、桂川と鶴川が上野原駅近くで合流しているあたりにあった「きんぎ岩」だ。川に中洲があり岩がある。地元の子供たちが、きんぎ岩と言っていた。金魚に似ているので金魚岩という説もあったが、”杵岩の鉛”の由で金魚岩は間違いであることが判明した。子供同士の話なので、今となっては何故金魚が出てきたか謎である。

◇きんぎ岩アドベンチャー
国鉄上野原駅近くの相模川上流の桂川(山梨県での呼称)は、昭和30年代はアユ釣りの名所であった。今は禁止されているが「ひっかけ」という釣法が主流だった。たくさんの針が付いていて、アユをひっかけ釣り上げる荒っぽい釣り方だ。たくさんの大人たちが鮎釣りしている桂川上流には、我々子供たちが遊ぶ場所はなかった。
きんぎ岩はそんな鮎釣り場から少しく下った桂川の中州にあった。浅いので大人たちも釣りをしていないため、子供たちの遊び場としては絶好だった。水着に浮き輪を付けたたくさんの子供たち、幼児たちも川の浅いところで水遊びしている。
従兄と私たち兄弟は、少しは泳げるので中洲まで泳いで行っては岸に帰ってくる。時には水中眼鏡で潜って川底を見て楽しんでいたものだ。

◆水中から見た泡だつ青空

よくよく考えてみれば三つ違いの弟は自分が小学5年生の時でも2年生なのだ。土手を駆け上るのも、駆け降りるのも兄たちについていくのはやっとで、泣きそうになりながら土手を降りてきたこともあって、「みそっかす【味噌っ滓】」扱いされていた。
きんぎ岩付近は川の中洲まで少し泳がないと渡れない。川底は突然深くなっているのだ。
ある日、そんな「みそっかす【味噌っ滓】」の弟が、兄の自分が泳いで渡ったのをみて中洲まで泳いで渡る途中、突然目の前でおぼれた。自分もその頃は、そんなに泳ぎは得意ではない。周りに従兄や兄たちはいなかった。ままよとばかりに助けに行ったが、“溺れる者藁をもつかむ”というが、弟に飛びつかれた藁ならぬ自分は見事に水中に沈み水底から泡と青空を見る仕儀となった。幸いなことに、弟は何とか浅瀬にたどり着き、自分も難を逃れたが、あの時水中から見た泡だつ青空は今でも忘れられない。

自分が高校生2年生になった頃(1968年)、近くの山梨県柳川(渓谷)でキャンプをやり、帰りに上野原に立ち寄った。従兄(二男)の案内で川に行ったが、その時には、すでに川の一部は汚れていた。その後10年程経過して、大人になって知り合った山梨出身の砂利採掘業者に聞いた話では、山下付近の川は砂利が豊富に取れるので、取りつくされ川は変容したと聞かされた。
僕らのワンダーランド上野原の冒険が終わったことを実感した。

《桂川》

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